「とおくてよくみえない」―高嶺格「Melody Cup」、アルカサバ・シアター「アライブ・フロム・パレスチナ」を観て

 2月15日に「アライブ・フロム・パレスチナ」を観た。おびただしい新聞紙が爆撃の後の瓦礫のように積み重ねられて3つの山を作っている舞台で、副題の「占領下の物語」が表すそのままの状況、自由を奪われ、生までも脅かされて生きているパレスチナの人々の現状をユーモアたっぷりに演じていた。2度目の来日だということだが、パレスチナから来た劇団だというだけで観たいと思った。

観ていて浮かんだ疑問は、翌日の、このブログでもずっと前に扱った美術作家、椿昇さん(「椿昇のradikal dialogueとは何か」)の司会での芸術監督ジョージ・イブラヒムさんの講演により明らかになった。

まず椿さんからなぜアラブの民俗音楽ではなく、サティの音楽を使ったのかという質問がなされたが、それは西欧の象徴として使っているという答えであった。

ぼくが質問したのは2点である。まず舞台の上に椅子に黒い人形が座ったままでつり下げられていたのだが、そこにも新聞紙がくっつけられていたが、あれはどういう意味なのかという質問であった。ジョージさんの「あれは西欧メディア」を象徴しているという言葉で疑問は氷解した。今パレスチナで起きている惨状の背景には、歴史的、政治的に常に西欧があるということを音楽でも舞台装置でも表していたのだ。

惨状を高みから見下ろすだけの西欧メディア。それが舞台でつり下げられた高さのことを考えたとき唐突だが、2月13日に観た高嶺格演出の「Melody Cup」(AIホール)のことを思いだした。それは「無を巡る問答、ナンセンスな肉体、文化の誇張と歪曲、くちゃぐちゃの越境性。美術作家・高嶺格とタイ/日本のパフォーマーとのコラボレーションによる、ユーモアあふれる話題作。」とチラシに書かれている通り、タイの俳優と日本人が、日本語に英語とタイ語を交えて、ダンスと演技と歌のパフォーマンスを行うもので、それにデジタルな映像と音楽を交えた作品であった。

アフタートークで鴻英良さんが指摘したように、深く掘り下げられ、客席から見おろすように配置された舞台は特異であった。高嶺さんも参加していたと聞く、昔観て忘れられない、ダム・タイプの「S/N」(府民ホールアルティ)の緊密さとは程遠いパフォーマンスであると言わねばならないかもしれないが、幾つかの単調な動きのダンスに混じって演じられた手脚を曲線的に動かすダンスや最後の舞踏をまねた動きなどは素晴らしかった。

少し拍子抜けしたのは、途中でDiva(女神)と呼ばれる水着姿の女性にインタヴューし、客席とも交流させようとする演出であった。アフタートークのときにその女性をそのように演出した理由について高嶺さんはその女性の肉体的な素晴らしさに感嘆したことをあげていた。

正直だと思ったが、一歩間違うと「オリエンタリズム」の眼差しになりかねないとも思った。禅寺を見物するタイ人の異文化ギャップや、日本語と英語でしりとりのようにただ単語を羅列していく発語の演出にも、異文化の混合という表現の意図は明確であった。

驚いたのはトークの時に鴻さんが、表面にはでていないけれどこの作品にも今回のエジプトの出来事につながる動きの流れが背景としてうかがえるのではないかと発言したことだ。だが、今回の作品のために実際にタイに高嶺さんが滞在したのは2週間だったという。

このことから次のことが指摘できると思う。高嶺本人もそうした解釈は「あとづけ」だと言っていたし観客からも指摘されていたが、作者・演出家は、明確ないわゆる批評言語で表せない水準で作品を創っているということと、批評言語のある意味では限界をも示しているのではないか、「アライブ・フロム…」もそうだが、作品の方が批評言語よりもずっと豊かで厚みがあると思った。

他の作者の舞台芸術作品と比較したり、歴史的・政治的な文脈にあてはめ説明しようとしたり、作者の実生活の伝記的事実と関連付けたりして説明しようとするが、作品の素晴らしさには到達できないもどかしさが常にある。

遅くなったので途中でトーク会場から外へ出ると廊下に今演じたばかりのタイ人の俳優たちがおり、ぼくを見ると頬笑み口々に「アリガトウ」と言ってくれた。それを聞いてなぜか恥ずかしいような、すまないような気がした。

16日のパレスチナ演劇についてのトークに戻るが、椿昇さんは人間性を奪われた生活を強いる理不尽さにたいする怒りの発言をしたとき、やはりエジプトの革命について語り、face bookがその重要な役割を果たしたことに触れた。デジタルな情報手段は、破壊はするが創造へと結びついた例を知らないということと、どこの国でも情報統制が行われていて、真実はなかなか伝わらないと指摘した。ぼくもびくびくしながらもface bookを始めたばかりなのだが、思考を奪う情報の危険性については自分に言い聞かせている。

生まれたときからコンピュータやゲーム機器に囲まれて生活している現状を認識しながらも、人間はロボットではない、デジタルな情報手段を信じない、それに対抗するものとしての演劇をめざす、と何度も繰り返すジョージさんに対し、情報の力と怖さを椿さんは力説した。

2月7日に横浜美術館で高嶺格展を観たのは本当に短い時間だったが、いま覚えているのは暗闇の部屋で高い所から見おろすように設置された床をライトが照らす言葉を読むようになっていたり、リボン状の映像として映し出される言葉を読むように演出されていたりする作品である。

もうひとつは展覧会の題と同じ題の「とおくてよくみえない」という作品であり、何人かの女性たちが床に無数に置かれた男性器の張り子と思われるオブジェを手に取り口に含む姿が黒い影としてスクリーンに映し出され、韓国・朝鮮語と英語とフランス語とドイツ語と日本語(他の言語もあったかもしれない)で言葉が流れる作品である。その言葉は正確には覚えていないが唯一覚えているのは、「すべてを吸い尽くせ」という言葉である。これは屈辱のもとに女性を捉えているのではなく、真実を汲みつくせという攻撃的な表現ではないかという感想を持ったが、何よりもこの展覧会の題がすばらしいと思った。その意味は物理的、視覚的に遠くてよく見えないということを示しながら、同時にその心理的な距離をも表しているというのは間違いないだろう。

パレスチナもタイもそこで起きていることを、ぼくは日本のマスコミから流される情報の範囲でしか知らない。そこは心理的に「とおくてよくみえない」のだ。

16日に、トーク会場となっている京都芸術センターのフリースペースでトークを聞きながら、その部屋も、劇が演じられた講堂も2・3年前その同じ場所で、イスラエルから来たGAGA peopleというコンテンポラリーダンスのメソッドのワークショップが行われ、ぼくもそこに参加し、踊ったことを思い出していた。

GAGA peopleとはプロにも一般大衆にも使えるメソッドで、そのメソッドは各人の精神と肉体を解放することを目指すもので、人は日常生活で踊っていないときでもその精神を抱くことができるというもので、共鳴したのだった。そんなすばらしいメソッドを生み出した国に占領されている地域パレスチナでこのような劇作品が作られ、しかも時を隔てて京都のこの同じ場所で演じられていることの不思議を思わずにおれない。何とかできないのだろうか?

前にこのブログで論じた椿さんが、インタヴューのなかで語っていた「どうしようもない困難な問題にぶつかったとき、もっとも原始的だけれど唯一有効なのは対話なのです」を思い出す。face bookに対抗する手段としても、「とおくてよくみえない」世界を「みえる」ようにする手段としても演劇が機能するよう願わずにおれない。(2011年2月18日。番場 寛)

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