ドミニク・ブランが魅力的な、上映してもらいたいフランス映画「とんだ花束!C’est le bouquet!」

2月19日に京都造形芸術大学の春秋座でパトリス・シェローとテイリ・ティウ・ニアン 演出のM.デュラス原作のドミニク・ブランの独り芝居「苦悩La Douleur」を観た。
 
シェロー演出で評判の良かったラシーヌの『フェードル』を当時パリにいて観ることができたのだが、あのときの豊かな胸をはだけたまま、義理の息子への愛と欲望を剥き出しに表した演技がまだ瞼に残るだけに、今回の演技というか外見は驚きであった。薄いブラウスをまとい、あとでコートを着る姿は痩せ、ふと一瞬だが老婆を連想させさえするような姿に、あの溢れるような肉体の豊満さはどこに消えてしまったのだろうと思いながら観ていた。しかし、モノローグなのに時間の経過とともに、第二次大戦中のナチスの収容所にいる恋人を、今の恋人らしい人物とひたすら待つだけの心情を語るその言葉に圧倒され、完全に引き込まれていた。

終わってから渡辺守章先生との対談が行われ、最後の聴衆からのどうしたらあのような素晴らしい演技ができるのかという質問にドミニクは、戦争中の資料やデュラスのノートなど可能な限り作品の背景を探って舞台に臨んだと説明した。

実はぼくにとってこのドミニク・ブランは映画の女優としてのイメージが強かった。脇役なのに主役よりもその存在感が捉えるのだ。今年度も授業で扱った宗教戦争をあつかった『王妃マルゴ』ではイザベル・アジャーに演じる王妃の付き添いとして一緒に男漁りをしたり、王妃の恋人を導いたりする役で、学生からは彼女の着ている胸を極端に露出した服装についての質問があるくらいインパクトのある女優だった。

しかしぼくが彼女の名前を、映画内での登場人物として忘れられなかったのは、日本では結局公開されなかった『とんだ花束C’est le bouquet!』(Jeanne Labrune演出、2003年)という映画のせいだ。

この映画を最初にパリで観たとき二つの理由で驚いた。一つはこれこそジャック・ラカンが『エクリ』の冒頭の論文で扱っているE.A.ポーの小説『盗まれた手紙』の「手紙」と同じ役割をこの映画の「花束」が果たしていると思ったからだ。

「盗まれた手紙」のなかで最期までそこに何が書かれていたかは明かされることなく、そこの登場人物を動かす「手紙」の機能をラカンはシニフィアンとみなし、そのシニフィアンの法則性が機能する様を示し、「象徴界」というものを説明したのだった。

『とんだ花束』の方はドミニクを除いても完全にぼくの好みの映画でパリにいたときたしか2・3回映画館で観たのだった。

ある若いカップルのうちの女性が朝、風呂に入っていると突然ある男から電話がかかってくる。どうも昔親しかった恋人か友人なのだが、女の方ではまったく思い出せない。彼女の夫は気になって仕方がない。電話の男はEmmanuel Kirche(それぞれ、「カント」と「教会」を暗示しているらしい)とはっきりと名乗っただけに気になる。

ところがその夫は一緒にパートナーとして働いている会社の社長と喧嘩してしまい、首になってしまう。

ドミニク・ブランDominique Blanc演じる女性は、その同じ会社の秘書として働いている。どうもそのカップルの男に気があるらしいのだが、それを表にだすことはせず、何とかその男を助け、会社に復帰させようとたくらむ。

その時の彼女はゴルチエのボディコンの真っ赤な色のスーツに身をつつんでいるのだが、なぜか寝る前にはコンタクトレンズを外し、ベッドでカントの『論理学』を読むのだ。トークの終わった後、一緒に観た木村さんがドミニクに話しかけているのに勇気づけられ、思い切って2本の映画で受けた強烈な印象を彼女に伝えることができた。「とんだ…」について伝えたとき彼女自身も笑い、最後に握手することができた。

Kircheが女性へ贈った「花束」は彼女に会えないため、同じアパートの他の住民の部屋を循環する。一瞬でこれこそラカンが「手紙」をそうみなしたシニフィアンだと思った。

映画は最初から終わる寸前までは、報復絶倒の喜劇として進行する。友人との確執に悩みながらも、妻の昔の男が気になってしかたがない夫と、陽気でかかってきた電話の男が誰であるかと思いだそうとさえもしない妻を中心に展開する。

途中でわかるのだが、花束を贈った男は現在はオーケストラの指揮者として成功している男で過去のある行き違いのために約束した日に、その女性と会えなかったことをずっと気にしている男だったのだ。

最後に彼は今度は別の花の鉢植えを持参して女性を訪ねるのだが、二人はヴァカンスに出かけようとしており、花は管理人に預けられる。

一番最後のシーンでは床にその赤い花びらが一面散ったカットが映し出され、ヴァカンスに出かけてしまっていないおんなの部屋の留守電に吹き込まれたその花を贈った男の言葉が流れる。現在女は幸せで自分のことなどこれっぽっちも覚えていないのに、若い頃一度だけおかしたしくじりで彼女と会えなかったことをいまだに悔いている男。

実は数年前にパリでようやくこの映画のDVDを買うことができ部屋で何度か観るのだが、複数の変な登場人物の交わす言葉遊びや暗示に満ちた会話に報復絶倒しながらも、最後は必ず涙を流すのだ。

ぼくの力では、言葉遊びは半分も聞きとれていないだろう。フロイトやカントやヘーゲルの暗示も少ししか分からない。だがこれは爆発的なヒットは望めないにしても、日本人が観ても絶対面白いと確信している。今回のドミニク・ブラン人気をきっかけにして是非この映画を上映してくれる配給会社はないだろうか?

ところで、例の「愛とは、おのれの持っていないものを、それを望んでいない者にあげることである」というラカンの定義について菅原誠一先生が「精神病理コロック」でその「おのれのもっていないもの」とは「対象a」のことだと断言したことについて、2月20日の読書会で、このブログでその見方についての異論を唱えたことで気になっており、話し合ったのだ。

それに関して、今日菅原先生からラカンがそれらしいことを言っている箇所を見つけたというメールをいただいた。それをもとに自分で探すと、文脈から判断するとそう考えるべきだとう書き方をしている箇所が『セミネールX』巻(「不安」)に見つかった。ただしラカンは、その「自分がもはや持っていないもの」として「対象a」を説明している。

それだけだったら驚かないのだが、その箇所でラカンは例の有名な凹面鏡と平面鏡の間に置かれた、逆さに置かれ隠された花瓶と、実際にたてて置かれた花束が鏡の機能で、花瓶に生けられた花束として見える様を図で示し、その鏡像としての花束をaとし、花瓶をi(a)(「小文字の他者のイメージ」)だと説明している。映画ではシニフィアンとして機能している「花束」がラカンのこの図では「対象a」と説明されている訳だ。

フランス映画ファンのみなさん、またラカニアンのみなさん、この映画が日本でも上映されるよう配給会社に働きかけようではありませんか?(2011年2月22日。番場 寛)

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