時に耐える「老い」(京極夏彦『オジいサン』を読んで)

 しばらく前からこのブログの読者が気になっている。殆ど読まれないと言われている論文に対し、確実にどの記事を何人読んでくれたかが分かることはすごいと思う。随分前に書かれて表の頁からは消えている記事でもいまだに読まれていることを知ってから、記事の最後に日付を入れるようにしている。

そのなかでも昨年の8月9日に投稿した、「老女?」の「性」(映画「百合祭」を見て) という記事をいまだにコンスタントに読んでくれている人が多いことに驚く。あまりにそうした状態が続くので自分でこの記事にたどり着いた検索サイトを逆に辿ったことがある。すると完全に性的好奇心に満ちたサイトなので驚いた。

つまり「ロリコン」の逆のような記事を導くサイトの羅列だった。 それは「老女」と呼ばれるような人たちに、愛なり欲望なりを向ける人が一定数いることを示している。お互いがめぐり合うことなく相手を思い続けているとしたなら…それはそれでロマンチックなすれ違いなのかもしれない。

では、そんな言葉はないだろうが「老男」の「性」はどうなるのかと問えば、谷崎のいくつかの小説や川端康成の特に『眠れる美女』のように肉体の老いが逆に対象となる女性への想いをつのらせるというパターンでいくつも描かれていることに気づく。そうした「性」の描き方は、若き日の大江健三郎から「老人文学」として批判されたのだった。

京極夏彦の『オジいサン』はそうした老人文学とはまったく異なっている。なぜか? まず「性」も「欲望」も描かれていない。本の帯に書かれているとおり描かれているのは「益子徳一、七十二歳、独身。定年後の人生を 慎ましく過ごす 独居老人の 大真面目で 可笑しくて 少しだけ せつない日常。」だからである。

『嗤う伊右衛門』でおどろおどろしい情念を描いた京極が、殺人や恋愛はおろか事件らしい事件も殆どない老人の日常だけで小説作品にしあげたことだけで驚きである。

主人公はなぜか生涯独身のため子もいず、仕事の義務からも解放され、それでいて体も頭も健康である。ひとりいた友人も亡くしてしまったので、他人との交際はない。それでいて彼にもいやおうなしに他人が接近してくる。それは先代から通っている田中電機店の息子であり、こどもの非行を未然に防ぐためということで暇を持て余している老人のひとりである彼に見まわりを依頼する婦人である。

あえて普通の小説だったら描かれる筈の、病気や死への不安や、生活する上での経済的不安は描かれない。また、主人公の益子が老醜に対する嫌悪感に似た感情を抱くのは、自分の枕カバーが汚れていることに気づく場面くらいであり、普通の老人だったら抱くのではないと想像される不安が描かれないという点では非現実的な老人の姿かもしれない。

ハイパーリアリスムともいえる手法でありながら、極めて人工的に純化されて描かれる老人像で浮かび上がってくるのは、老人に限らない「生」の裸の姿だと思う。それはすべての人に共通な死へ向かって流れていく「時」の重みというか、逆に軽みである。

それを顕著に表しているのが、「地デジ」への移行、「携帯電話」の使用への変化というものが理解できず戸惑う姿である。何も不都合なことがなく機能しているテレビがやがて「映らなくなる」ということが理解できない主人公の姿に、新美南吉の童話『おじいさんのランプ』を思い出した。

その童話の主人公は電気が入ったため自分の扱うランプが売れなくなり、自分でそれをつるして一個一個「お前の時代は終わった」と言い、泣きながら石をぶつけて割っていく場面である。

益子が、その世の中の時間の過ぎて行く速さになじめないのは、彼が自己の生を維持し、新聞の隅々まで目を通す以外には無為の生活を送っているからだろうか? この小説は主人公の過ぎて行く「時間」の感覚を、世の中の変化と対比させることでまるで高速度撮影のビデオで撮った映像を見せるように描いている。

この作品を読んでいてやがて確実にいつか訪れる「死」をいうものをひかえたまま、ただ時の過ぎるのを経験するという意味で、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い出しもしたが、違いにもすぐに気づいた。 『ゴドーを待ちながら』の二人の浮浪者は、やってこないゴドーと呼ばれる人をひたすら「待つ」という行為を繰り返すのだが、『オジいサン』の主人公にはそれがない。

最後で、家族のない益子にもそれらしき結びつきができそうだというところでこの小説は終わっており、読者は安堵に包まれて頁を閉じることができる。その分「時の重み」に耐え続ける存在の「生」そのものへの探求という点では甘いものになっているが、作者はそんなものは望んでないのだろう。いずれにせよ、どちらかといえば、アンチヒーローになりかねない「老男?」が、エクリチュールの力により輝きだすという点では画期的な作品だと思う。(2011年4月18日。番場 寛)
 

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