「大谷学会春季公開講演会」で兵藤一夫先生と斎藤環先生の講演を聞いて

 斎藤先生の到着を待っていたため、残念ながら兵藤先生の講演「分別と戯論」の最初の部分を聞くことができなかった。「分別」はともかく「戯論(けろん)」はぼくにとっては聞きなれない言葉であった。

兵藤先生の作られたレジュメによれば、両方とも龍樹が用いた用語であり、人間の苦しみである「業」も「煩悩」も「分別」から生じ、その「分別」を生じさせるのが「戯論」である。

兵藤先生はこの二つの概念を分かりやすい言葉で丁寧に説明された。聞いているうちに仏教の話を聞いている筈なのになぜか懐かしい話を聞いているような気がしてどうしてだろうと思ったら分かった。

それは兵藤先生も名前を出されたが、ソシュールの言語理論に近い内容だったからだ。故丸山圭三郎先生の授業で何度となく聞いた内容に重なった。つまりわたしたちは「言語の網の目」を通してしか「現実」を認識することはできない。「分別」とはそれはソシュールで言えば連続している現実を区切ること、「分節articulation」することでなりたっている体系であり「言語langues」であろう。

では無意識における言語活動とみなされる「戯論」の方はどうなるであろう。ソシュール言語学であったらそれは純粋な記号体系として、複数の「言語langues」を成り立たせるもととなる単数の「ラングlangue」となるのではないだろうか。ただここでソシュールをラカンの理論によって補強しなくてはならない。しかし無意識までもふくめる体系をラカンの「ララングlalangue」のようにあらたな用語で名づけるべきかどうか分からない。

なぜならラカンは「無意識は言語langageとして構造化されている」と断言しているからだ。「戯論」もラカンによれば「象徴界le symbolique」に含まれることになる。

こういう風に考えれば、ここまでは受け入れやすい、非常に親しい内容に聞こえた。しかし問題はその後である。おそらくそこに仏教の本質があるのだろうが、一瞬たりとて変化をやめない無常のありのままの現実を見えなくしているのが、その「戯論」によって起こった「分別」であり、それが人間の苦の源であるという考え方だ。

では、人間は言語を忘れ去ることができない以上、苦からは逃れられないということになってしまう。先生がレジュメにお書きになっておられるような「智慧によって無知を打ち破ることで、これまでの『認識のあり方』から転換される」にはどうすればよいのだろうかという疑問が湧く。

先生は確か、それも言語で行わなくてはならないというようなことを述べられたと記憶している。ぼくが疑問に思うのは、「あるがままの現実世界」というのは認識可能なのだろうかという点である。到達するのが不可能という点ではラカンのいう「現実界le réel」という概念にも近いと思われる。

そのあと聞いた斎藤 環先生の「換喩・キャラクター・日本人」という講演は、先生の3月に発行された『キャラクター精神分析』(筑摩書房)と『現代思想』2011年5月臨時増刊号「古事記」特集号に収められた「発光する神、あるいは換喩的感染」という論文の内容を中心に語られた。

ある「本質」を別なもので表す「隠喩(メタファー)」という語に比べて、「隣接性」によって、関係づけられるもので表す「(メトニミー)」という語はなじみがないと思われる。

その「換喩的」な表象や言語の現れこそ、「隠喩的」なそれらが現れる西洋の文化と対比させ日本文化の本質であると大胆な仮説を立てる。それを「福島原発事故」による放射能感染への恐怖から人への差別が生まれている現状の分析から入り、すでに『古事記』書かれている神話の神々にすでにその「換喩的」な思考が表れていることを、「汚れ」という概念や自ら発光する日本の神々の特徴の分析から指摘された。

そうした「換喩的」な思考は「隠喩的」な思考で表されるアメリカのキャラクターと比較したときにも明確になるとスライドで示された。

提示されたあまりに豊かな例をここですべて書くことは控えるが、先生が『キャラクター精神分析』でも挙げておられたもの(179-180頁)で、本当に日本のオタクと呼ばれる若者はすごいと思った例をここで再び紹介しておこう。

中国で日本人に対する侮蔑語のスラングの「日本鬼子」が広まった時、これを受けてこの言葉に全く別の意味を「上書き」してしまおうという企画が実現してしまった過程である。一気に「萌え擬人化」が推し進められ、膨大な数の「日本鬼子(ひのもとおにこ」キャラが描かれたという。スライドで紹介されたのはその一つで、角が生えており鬼の面を頭に乗せているが、着物を着た美少女である。

本には「こっちは罵声を送っていたはずなのに返ってきたのは萌えキャラ…なんかもう、無力感に苛まれる…」といった、それらをみた中国人の反応の一部が紹介されている。
「罵倒」を「パロディ」で返すことで生まれたある種のコミュニケーションが面白いと思う。

斎藤先生は「『名前』の隠喩的な擬人化こそが、キャラ造形のプロセスである」と言うべきかもしれないと書いている。

講演では、兵藤先生の講演を踏まえて「主体」というものの幻想、空虚さという点では「仏教」と共通しながらも、成熟した「自己愛」を目指すという点で「精神分析」は決定的に異なっているという重要な指摘もなされたのだが、その点については僕自身もこれからも考え続けていきたいと思っている。(2011年5月25日。番場 寛)

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