「マレビトの会」の街中演劇と「国際文化学科卒業生と在学生との交流会」に参加して

  予定しているルイーズ・ブルジョワについての自分の研究発表の原稿がなかなか進まず気がかりの中、つねにその動向を注目している松田正隆が主宰している演劇集団「マレビトの会」が「マレビト・ライブ」と称して5月より街中で演じている市街劇を6月4日に観てきた。
 前回も授業の合間をぬって京都市内の小さな公演で行われた劇を観たのだが、そのときは公園で普通に遊ぶ子供たちの声に、俳優の台詞がかき消されるというより街中のどこからともなく聞こえてくるざわめきで殆ど台詞は聞こえなかった。

しかしそれほど驚かなかったのは松田の狙いが分かっていたからだ。松田は「ユビュ王」の上演のとき、わざわざ舞台の外の街中の騒音を外に設置したマイクでひろって観客席に聞こえるようにしていた。それは前に小嶋一郎が「日本国憲法」という劇を京都芸術センターで上演した時、あえて部屋の戸を開け、外の音や会話が聞こえる中で上演した方法と同じ狙いだと思われる。

つまり演劇はあえてそれと対立する「日常」という時空間と拮抗することで、演劇空間そのものが異化され、それによるリアリティを生むことができるという狙いである。

前回のこのブログのテーマは「文脈の転換」であったが、「演劇」という「文脈」のなかにあえて「日常」という「文脈」を挿入することは、「フレンチ・ウインドウ展」に展示されていたマルセル・デュシャンの「レディ・メイド」という方法と同じである。

実際公園のベンチに座って上演を待っているぼくにある若者が「今何をやってるんですか?」と尋ねてきたとき、一瞬彼が俳優かもしれないと思ったくらいである。

今回2回目となる「マレビト・ライブ」は京都の街中3か所にある建物内で行われたが、ぼくは15時から始まる国際文化学科の交流会に参加するため、2箇所の上演しか観ることができなかったが、松田の狙いとその成果は自分なりに十分理解できたと思っている。

まず主人公の緑下稲光の家と設定されたアパートの一室で男とそこを訪れる女とで演じられる劇をそこに入って数名で観た。まず地図で示されたアパートを見つけることから始めるのだが、松田が会場の前に立っていて、ここだと教えてくれたものの玄関の空いている方に入るとすでに何人かの靴が脱いであり、年配の女性が何か大きな声で話している。もう劇が始まっているのかと思ったら、そこはアパートの隣の民家であり不法侵入をしかかったことに後で肝を冷やした。

舞台となる部屋は靴を脱ぎ上がった2階にありベッドの上に物置があるだけの狭い部屋で小さなちゃぶ台に男がひとり座っているところから始まった。観客はベランダに出て観ることになるが、そこはプラスチックのトタンのようなもので覆われており、そこには洗濯機や冷蔵庫ばかりか流しやガスコンロまで置かれており、あたかも一つの部屋の機能をなしていた。

外で鳴くカラスの声や騒音が聞こえる。そこには生活の小道具がそのまま置かれている。デュシャンだったら「レディ・メイド」と呼ぶかもしれないが、つまりある男の日常生活の舞台をそのまま劇に「引用」したともいえるであろう。

しかしそこで交わされた男女の会話の言い回しは、けっして日常的ではなく、いかにも演劇という発声で交わされた。

急いでタクシーで移動して次の「マリーの働く居酒屋」と設定された店にかけつける。すでに劇は始っており、4人の俳優が店内で順に言葉を発している。俳優と同じくらいの人数の観客は店の客が座る席にそのまま座りそれを聞くことになる。それまで黙って本を読んでいた山口春美が演ずる女が「リルケの・・・」といういかにも芝居がかった台詞を発し突然倒れる。

舞台がおそらく普段のこの店で繰り広げられているであろう日常的な光景であるため、台詞は日常とは離れた発生と内容でないといけないのだろうかと思った。

3つ目の場所で演じられる劇を観ることができなかったという不十分さを自覚した上で考えてみた。まったくの「日常」という文脈に「N市の物語」という文脈を暴力的にはめ込んで「演劇空間」を成立させようという狙いはどのように評価されるであろう。

寺山修司が行った市街劇は観ることはできなかったが、日常に亀裂を入れる効果を狙ったものと想像できる。「マレビト・ライブ」はあらかじめネットで示された地図にしたがって観客がみずから脚を運び、別の日常空間を演劇空間として観ることで初めて成立するものである。

「演劇とは『観客』を創り出す装置のことである」という考えをほとんど確信のように抱いている自分にとっては、今回の松田の試みをこの段階でどのように評価できるかは分からない。しかし「マレビトの会」の試みは新たなことに向かっているというだけでも評価したい。

さて3つ目の上演作品を観ることなくかけつけた「国際文化学科の卒業生と在学生との交流会」はどうだっただろうか? 在学生の参加者が思ったよりも少なくて残念であったが、卒業生が話す話はどれもかれらにとって有益であったと想像できた。
 
ぼくのゼミの卒業生からはK君とYさんが来てくれたが、二人とも在学生のときの良さをそのまま残しながらも確実に成長していることを確認できて嬉しかった。現場で働いている者でしか分からない話が聞けたことは、劇ではないがまったく別の「文脈」で語られる世界でぼくにとっても面白かった。

国際文化学科の学生のみなさん、来年もこの催しがあったら絶対参加すべきですよ。(2011年6月7日。番場 寛)

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