「死の欲動」は表現可能か?(「異邦人」京都舞台芸術協会プロデュース公演と平山素子のもらした言葉)

前々回のこのブログで書き忘れたのは、「月食のあと」というダンスソロ公演(世田谷パブリックシアター)の後のトークで、会場から観ていて消え去ってしまうような印象を受けたという感想が語られたときのことだ。平山素子は「そうですね。わたしはいつも消え去りたいと思っています。だって踊っていてこんなにしんどいこと、はやく楽になりたいとしょっちゅう思いますよ」というようなことを言った。
 驚いた。人間というものはこれほどまでに身体をしなわせ、ねじまげ、弾ませ、回転させることが可能なのだろうかと驚かせる動きで舞台を舞っており、しかもトークのときも宇宙船の中で一番最初に踊るダンサーになりたいと意欲を語っていた彼女の口から出た言葉だからだ。
 また先月偶然仏光寺で聞いた講演で、釈 徹宗が「浄土」について質問があったとき、いつかだれでもが確実に行くことのできるところがあるということでわれわれは生きていける、と語った。
 これらの話を思い出したのは、6月9日に京都芸術センターで山岡徳貴子脚本、柳沼昭徳演出の「異邦人」を観たときである。

 4人の若い女性がある村にやってきたのは、やがて自殺するためであると分かる。しかも練炭での自殺を失敗して次の決行を模索しているのだ。仲間の一人に首を絞めて殺してほしいと懇願したことで死んだかに見えた主婦は死んでなかったのだが、夫も子供にも不満のない彼女がなぜ自殺したいと思うようになったかは不明である。

 舞台は彼女たちに会い、自殺を思いとどまらせようとする3人の村人との葛藤で展開する。

アフタートークに招かれていた土田英生も言っていたが、どうも前半の登場人物たちの台詞と後半のそれとが祖語を来しているのではないかという印象を持ってしまった。

車の中で死のうとしたのに窓ガラスのふさぎが不十分で自殺に失敗した筈なのに、実は4人はすでに死んでいたという設定である。

論理的におかしいと言いたいのではない。J-P.サルトルの「墓場亡き死者」だったか「出口なし」だったか忘れたが似ている設定である。もし死者としてそこに存在しているとしたならもうそこから行く場所はないことになる。永遠にそこで苦しむことになる。

劇では最期に、自殺志願の4人と村人3人が、タッチされた者が鬼になり他を追いかけるという鬼ごっこをするということで、ある種のコミュニケーション、他者との結びつきを獲得したというところで終わっていたが、大いに疑問が残る設定だと思う。

観ていて思ったのはやはりフロイトの言った「死の欲動」である。われわれはいつも死を恐れており、その「死にたくない」という気持ちがあまりに強いとき、逆説的だが、ふと死んで楽になりたいと思う時もある。

われわれが生きようとし、ダンサーが踊ろうとするのはその「死の欲動」に対し「生の欲動」を対抗させようとするあらわれ、あがきなのかもしれない。

ところでようやく日本病跡学会での発表原稿「ルイーズ・ブルジョワの後期作品に対する精神分析理論の有効性」ができこれから列車に乗る。これも「死の欲動」に抗うためである。(2011年6月16日。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中