女優とは何か?(「マレビト・スタディーズ vol.1」を聴いて)

 6月27日に「京都芸術センター」でワークショップとして、「マレビトの会」の主催者・演出家の松田正隆氏を司会として、池内靖子氏と、演出家の永井 愛氏とで「女優」を巡ってシンポジウムが行われた。

まず池内氏の著書で明らかにされたことを確認することから始まった。日本における女優一号と見なされている松井須磨子という存在は、国家と男性のまなざしからある意味を担わされた存在であった。「女優」は現代の演出家の鈴木忠では、理性的な存在である男性に対立する情念を体現した女性という存在へと変化している。いずれにせよ「美」の基準でも評価される存在と言う点で「男優」とは異なっているという事実が確認された。

ぼくが、松田が「マレビトの会」として演出する作品では俳優はすべて言葉を立ち上げる記号のような存在であり、「女優」というものを際立たせるようには演出されていないので今回のテーマは驚いたという感想を述べた。

「わたしは女優よ」という台詞が原語でも「俳優」でなくて「女優」だったのかとしばし問いかけがなされたのは、「男優」との非対称性が確認されたからだ。

面白かったのは、永井氏が自分の脚本を過剰に自分自身の演出をいれて発声してしまうため却って嘘っぽく聞こえてしまうだめな俳優の例であった。舞台の相手に向かって話さなくてはならないのに、客席に向かって発声してしまうからだそうだ。

シンポジウムの最後になって突然、松田が震災で津波で流されている光景をYou Tubeでみていたとき「逃げて」という声にまじってそれを撮っている人の声が聞こえたときのことを語り、今回の震災後何らかの抑圧のもとに創っていかなくてはならない者にとって、このリアルという問題をどのように考えるのかという提示がなされた。

それに対しての返答だったかはいまは確かでないが、永井が原発反対運動で揺れている祝島のドキュメンタリーを観ていて島の老人がとてもいい言葉を話しているので、それをそのまま自分の脚本にいれようと思ってもできない例をあげた。

それはいま仲間たちとダンスの振り付けを考えている自分にとって切実な問題として聞こえた。どんなに現実が切実なものであってもそれをそのまま舞台に載せてもそれはリアルなものとして表現されないことは身に沁みている。

ところで後でこのシンポジウムを振り返ってなぜ質問しなかったのか残念な思いがしたことが一つあった。それは今年活動を再開したらしいが、20年ほど前に活動を休止した「劇団 青い鳥」の俳優たちのことだ。

それは女性だけの劇団で、舞台でも「少女」から「母親」「お婆さん」へと変化する女性が描かれている作品を上演する劇団だったからだ。最終公演では劇で使った野菜を客に配っていたことを憶えている。彼女たちは決して男性の眼差しに還元されない俳優たちであり、彼女たちは、全員女性であるにもかかわらず「女優」とは言えない存在であったと思う。

なによりもその劇団でかっこよかったのは劇が終わって最後に挨拶する時「作・演出は、一堂令(漢字は確かめてください)」と全員で発声すると同時に頭を下げる場面であった。つまり全員で創っていたのだ。ぼくらのダンスもそうできるだろうか?(2011年7月3日。番場 寛)

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