いったいどうやってダンスを創ればいいのだろう

書けない。論文ではない。小説が書けないわけでもない。ダンスの振り付けが浮かばないのだ。
 
実は2年前にダンサーの振り付けと指導のもと、オヤジたちのグループで踊ったことが評価され9月に地方の演劇祭に招待され、またオヤジたちのメンバーで踊ることになったのだ。その劇場は聞くところでは地方で創造的な活動をしている少ない劇場のひとつでそこで人前で踊るということだけで名誉なことだと思い、メンバーたちと練習に励んでいる。

 前回と違い、今回は指導者はアドバイザーにとどまり、振り付けは我々自身で創らなくてはならないことだ。最初コンセプトから入ろうとしたがなかなか全員の意見がまとまらず、具体的な動きを試してみて振り付けを手探りで創っている段階だ。

祇園祭り気分が高まっている京の街中でオヤジたちがダンスに励む。こんな夏があってもいいのでは、と思ってはみたものの、明日は各自がソロでの振り付けを考え、みんなの前で披露することになっているのに、振り付けが決まらない。

いままで見てきた数多くのダンスのことが頭に浮かぶ。批評するのがいかに気楽な作業であったか今思い知らされている。ぼく自身のコンセプトははっきりしている。震災後という現実を反映して、「破壊と創造」「絶望と希望」というものだ。

音楽もすぐに決まった。タルコフスキーの遺作となった映画「サクリファイス」で使われていたバッハの「マタイ受難曲の39番」がまず浮かんだ。絶望のなかで、かすかな希望をたよりにもがく姿をダンスで表現できないかと思った。

またまったく傾向は違った音楽だがフィリップ・グラスの「グラスワークス」という曲も使いたい。これは村上春樹の小説で一番好きな「羊をめぐる冒険」を読んでいると聞こえてくる音楽であるというか、その小説を読むと聞こえてくる音楽で、この感覚をダンスで表現できないだろうかと思った。

両方ともYoutubeで簡単に音源は手に入ったのだが、どう踊りを組み立ててよいのか途方に暮れている。

ところで9日に大学で補講をした後、京都芸術センターで劇団ルドルフを主宰している筒井加寿子さんの「夢を演劇で再現する」というワークショップに参加した。文字通り参加者の夢を記述してそのなかの一つを参加者で劇にして劇を演出する試みだった。

夢のちぐはぐさ、それでいて異様に強烈なリアリディを演劇にするにはどう工夫すればいいかを筒井さんの指導のもとに参加者が手探りで試みていく。

共同作業だということ、コンセプトは最初は明確ではない点、ぼくらがダンスでやっていることと似ていると思った。

そんな状況において昨日12日に観た「狂言の<現在>-新作を含む三本立て上演」(京都芸術センター)には感心させられた。新作とはいっても狂言とスタイルが確立しているため、そして何よりも熟練の役者によって演じられたため、だれでもが楽しめる舞台だった。その中でも土田英夫が書いた「鮒ずしの憂うつ」という作品が特に面白かった。臭さで嫌われ自信を失いかけている「鮒ずし」が友人の「ひき割り納豆」と「くさや」に励まされ、自己のアイデンテティに目覚め生きる力を得るといった話だが、ぼくはこれは「狂言」という芸術そのものの隠喩とも読める話なのではないかと思って観ていた。

「狂言」に比べれば、コンテンポラリーダンスというあまりにも枠が定まっていないジャンルにおいて、技術も何も持たないぼくたちが振り付けを創ろうとしていることは無謀な試みに思えるかもしれない。それでも…

とにかく明日だ。とにかく踊らなくては。ダンス・ダンス・ダンス。(2011年7月13日。番場 寛)

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