「ボロメオの結び目」で「愛」を表せるか?

 大学では、ようやく授業、試験が終わったと思ったら成績を出さなくてはならない。それなのに頭と体はダンスモードで、土曜日に久しぶりに「ダンスフォーオール」(京都芸術センター)に参加してしまった。驚いたことに、大谷の美しき本物のダンサーであるI先生も参加されており、こちらはいつになく恥じらってしまった。

生後数か月のお子さんを抱いたまま参加する若いお母さんや2・3歳の子供たち数人とそのお母さんも参加していて、女子大生やわれらが仲間の70代のMさんも入れると、文字通り「すべての人のためのダンス」のワークショップだった。予想はしたもののきつく瞬間的に貧血を起こしかけたが、心と体を全面的に開放した2時間だった。いつものことながら、2日後から訪れた筋肉痛で体はガタガタなのに、心というか体の奥底にはなぜかエネルギーが湧いてきており不思議だ。

そんな中、本職を忘れそうなのでラカンの1973-1974年のセミネールLes non-dupes errant(直訳すれば「騙されない者たちはさまよう」をAssociation lacanienne版で読んでいる。今年も参加する予定の夏のセミナーのテーマであるからだ。

その中の1973年12月18日のセミネールにびっくりするような論理の展開があり、自分で理解するために訳し始めたが、ちゃんと訳したつもりでも他の人が読んだら分からないものになってしまった。でもダンスモードの頭をラカンモードにするために無理を承知で少し図式化してみよう。

この日ラカンは例の「ボロメオの結び目noeud borroméen」(どの一つの輪に鋏を入れても3つがバラバラになるように結ぶやり方)を出して説明しているのだが、3つの輪のうち「象徴界」を表す輪を「現実界」と「想像界」の仲立ちをするもの(「象徴界」の輪が他の二つを結びつけている)と見なし、その「象徴界」の輪を「神の愛」と見なしているのだ。その「象徴界」の輪(=「神の愛」)で結びつけられている二つのうちの「想像界」が「身体」を表し、「現実界」が「死」を表すものとみなしている。

「まさにここにおいて、宗教が神の愛を述べ伝えるかぎりにおいて、宗教の神経(肝心なもの?)が位置するのです。またここにおいてこそ、狂ったこの物事が実現しもするのです。その狂った物事とは、旅における性愛がそうであるものを空にすることなのです。」

こうした<他者>Autre(この場合は「神」か?)の倒錯がサディスティックと見なされる歴史において、「想像界」とみなされた「身体」に感覚麻痺を導入したのだとみなす。
 
「ここから、汝の隣人を汝自身のように愛せ、という次元が強制されるのです。『それに騙されなさい。そうすればあなたは彷徨わないでしょう』わたしはこれを言わねばなりません。なぜなら、このような宗教は何でもないとは言うことはできないからであり、わたしが皆さんに前回そう言ったからでありますが、それは本当です」

ここでラカンは宗教における至高のものとしての「三位一体」に「ボロメオの結び目」の3つの輪を当てはめようとする。さらにキルケゴールの著作仏訳版『生と愛の支配Vie et règne de l’amour』(『愛のわざ』白水社、『愛の業』創言社、がその翻訳だろうと藤枝真先生よりご教示ありました)を引き合いに出し、「愛は慈愛であり、信仰であり、期待である」ことを強調し、それが芸術作品、たとえば絵画においても表わされていることを説明する。それは乳房を持った女性に男の子がぶら下がっている絵で象徴化されていると言う。

さらにラカンは3つの輪を「二つの端」とその「仲立ちをするもの」ととらえ、「死」と「身体」という二つを「出発」と「終わり(目的)」と見なす。その二つを結びつけるものが「神の愛」という「仲立ち」(=象徴界?)だという。

さらに興味深いのは「神の愛」というものを「成就することを欲望する」ということが前提となっていることから、ここには「欲望」という語が「目的」という語に転換されていると指摘する。ここにおいては「目的」をつくるのは「手段」であることが分かると説明する。

途中省略するが、驚くことにラカンは「神の愛はわたしが欲望と定義したばかりのものを、真実を獲得することで、その真実により欲望を追い払ったのです。厳密に言って、この場、それが手段にしかならない限りにおいての象徴界の場に位置しうるもの、それは欲望なのです。わたしはついでに、みなさんにつぎのことに留意してもらいたいのです。キリスト教の愛は、それどころか、欲望の炎を消さないのです。身体と死とのこの関係をキリスト教の愛は、こう言ってよければ、欲望に洗礼を施し、愛と名づけたのですil l’a, si je puis dire, baptisé amour」

ラカンのこの日のセミネールはまだ続くのであるが、ラカンのセミネールの年代において解釈が変化していく「ボロメオの結び目」は、単純でそれでいて、いくらでもいろいろな意味を当てていくことのできるものだが、このような解釈、いわゆる「見立て」は非常に面白い。ようやくほんの少し頭がラカンモードになったようだ。(2011年8月3日。番場 寛)

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