「人生には何の価値もない」(?)―「反復」と「転倒」―

「欲望とは何か」という問題とともにずっと考えているのは「反復」についてである。J.ラカンのセミネール16巻に「反復されるものしか解釈されない」という文があって驚くととともに本当にそうだと思った。ある現象がその意味を持つのは「反復」によることが多いというか殆どそうではないだろうか? 

8月6日のオープンキャンパスのブースで受験生を迎えた。もうあれから一年経ってしまったのか。まるで高速度フィルムを見ているように時間が経っていく。改めて「こんなにまじめな学生を国際文化学科に受け入れていたんだ」と感心するほど、受験生の質問は真剣だが、昨年も聞いたことと重なる。「英語をもっと勉強したいので」「英語が好きで留学もしたんですけど、もっと基礎の文法から勉強したいとおもうのですがそういう授業ありますか?」「在学中に留学はできるのでしょうか?」「アジアの人々の生活を知りたいのですが…」

普段授業で見ていると、学ぶ情熱を忘れてしまったかに見える学生が目につくことがあるが、こんな希望を抱いて入ってきている学生もいることも間違いない。「反復」は時の経過だけでなく、流されていく日常を新鮮な感覚で迎える助けともなるのだ。

ところで、もうあれから一週間たってしまったが、週一回水曜日に四条烏丸のフレンチカフェで開かれているフランス人との自由な懇談会に参加したときのことだ。ひとりのフランス人女性に3月の大震災のときに自分が受けた衝撃について話し、彼女の受けた感想を聞いた時のことである。彼女はああした惨事を前にするといままでの全てのことが相対化されると言った。それは「死」や「すべてを失う」という現実を前にするとそれまで重要があったり、価値があると思っていたことがすべて相対化されてしまうという意味であった。
 
ぼくが感心したのはそのときに彼女が引用した20世紀の小説家、アンドレ・マルローが言ったとされる言葉であった。記憶に間違いがなければ彼女はこう言ったのだ。「La vie ne vaut rien. Mais rien ne vaut la vie」

mais(しかし)を除けば主語と属詞を転倒しただけの文だ。しかしそれを耳にしたときマルローは何てすごいことを言ったのだろうと思ってしまった。直訳すれば「人生には何の価値もない。しかし人生に値するものは何もない」となろう。「人生には何も価値がない」と否定的だがふと襲われるようなニヒリスムが、一挙に「他の何ものにも見いだせない、人生のかけがえのなさ」の指摘へと転換されている。それは同じ単語と構文を用いてなされているだけに強力な効果を生んでいる。

ところで今朝ネットを見ていたら、涙なしには見られないという触れ込みでタイの保険会社のCMが宣伝されていたので見たら同じ構成の言葉を見つけた。http://youtu.be/feVOv1hvxfU  

このCMは父親が障害を持っているため学校でいじめられた女の子がたえられず自殺を試みてしまい、それを必死で助けようとする父親の姿が描かれ、最後は親子の愛情と絆が復活したことを推測させる映像で終わっている。そこで最後に字幕に出てくる言葉が「There are no perfect father. But a father will always love perfectly.(完璧な父親はいない。しかし父親というものはいつも完璧に愛したいと思うものだ)」であった。

主語と目的語や属詞(補語)を転倒させた表現が強い効果を持つのは、一種の「反復」の持つ効果と同じはないだろうか? 

ところで、あさってから田舎でお盆を過ごすがこうした人間の営みも「反復」なのだろうか? そうだとしたら、その「反復」の真の価値は? ふたたびマルローの言葉に返されてしまいそうだ。(2011年8月10日。番場 寛) 

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