「少年王者舘」公演、天野天街 作・演出「超コンデンス」を観て― 「差異」と「反復」(?)

天野天街の演出作品を観るのは2年ほど前に下北沢で観た寺山修司原作の「田園に死す」に続き2回目だ。今回も最初から彼の作・演出の特徴が現われていた。台詞には「酒は百獣の王と言うではないか」というような巧みなギャグも多いのだが、俳優が常に客席に対し正面を向き、叫んだり、どなったりし、ほとんど沈黙の隙間なく台詞や音楽や映像が流される演出には、もう少し「間」があれば、情感も湧くのにと思い、少し苦痛さえ感じるほどであった。

舞台装置だけで「昭和」の気分なのに、「白い野薔薇を捧げる君に・・・」と最初に流れてくる歌は三田明の「美しい十代」ではないか。これは実は僕が生まれて初めて買ったレコード、しかもドーナツ盤と呼ばれるものに入っていたその曲なのだ。会場である京都芸術センターの客席の大部分を占めている若者たちはまだ生まれてない頃の曲で知らない筈だ。

最初に登場した主人公らしき少年は何度も「俺、ここにいるよね?」とそこで新たな人物に会う度に尋ねる。これは小劇場でよくある「自分探し」の劇かと思い始めて退屈し始めたのだが、それに続く展開はまったく違っていた。

例えば「ジージー」というセミの泣き声が孫の老人への「爺、爺」という呼び声に変わったりするだけでなく、今回は映し出された文字が移動し、回転し別の文字へと変化するなどいわゆる言語のシニフィアン(言語の「音」や「文字」など外的に意識されるもので「意味」や「概念」のシニフィエに対応する。ただし両方「実質」ではなく「フォルム」である)の連鎖を台詞や映像で舞台上に実現して連続を創っている構成はさらに進化していた。

また、「イチロー」という名の少年を初めとする登場人物が外見は明らかに違うのに舞台上では同じ人物として増殖していく様も、天野作品ではお馴染みなのだろうが、本当に面白い。

これを観ている時の感覚は不思議なものだ。観ていて何度も笑ったが、それが感情の中心ではない。もちろん「悲しみ」や「怒り」や「愛」といった感情でもない。観ていて生まれるカタルシスのような「感情」が何であり、それがこの劇のどこから生まれてくるのか観ながらずっと考えていた。

分かったのだ。そのとき湧いてくる感情とは「ノスタルジー」であり、それは意図的に天野によって巧みに編まれた「差異」と「反復」の技法によるものだと。舞台装置の壁に頻繁に映し出される「~秒(分、日)前」「~秒(分、日)後」という言葉により、時間を経て発せられたこととして発せられる同じ台詞、たとえば「ラジオを消してくれんか」「酒を飲もう」という台詞が「反復」されたとたんに一種の「ノスタルジー」と同じような感情が生まれる。

逆に同じ台詞が同じ名前の違った外見の人物によって発せられる時は、「差異」によって「反復」が支えられ強められ「ノスタルジー」はより強固なものとなる。ジル・ドゥルーズの言っていることがまさに舞台上で実現されている。

ところで2回ほど純粋なダンスの場面があったのだが、まったく感心してしまった。それは僕たちのグループが振り付けに苦労しているダンスとは違い、それほど複雑には見えないのに巧みに振り付けがなされており、思わず「うまい」と思ってしまったからだ。

思えば、ダンスの動きそのものも「差異」と「反復」を意識的に組み合わせて出来ているのだ。

この公演は京都では残すところ8月20日と21日の公演のみだが東京の公演が6日間ある。京都の松田正隆や三浦基の洗練され、磨き上げられた演出とは違って猥雑でエネルギーに満ちた形成途上の印象を与える、それでいて極めて「差異」と「反復」にほとんど偏執的なこだわりを持って演出されたこの公演も、時間をつくって是非観たらいいと思う。(2011年8月20日。番場 寛)

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