まるでパラレルワールド(その2)-パリ、マレー地区の外れにて

 出発前日緊張していたせいか殆ど眠れなかったのに、飛行機の中でも眠れなくてとても辛い状態でパリについた。ホテルにつくとさっそく近くの分析家のキャビネに行く。 彼女は「時間通りだ」と驚いたが、他に何の言葉も交わさず寝椅子に横になる。「私の状態はまったく変わってなくて問題なのは…」と話し始める。すべてが一年ぶりなのにまるでつい昨日もここに住んでいて、その続きのように話し、彼女は淡々とただ耳を傾けるだけだ。

レピュブリック(共和国)広場に近いこの地区は11区だが、すぐ近くのホテルのあるのは観光客に人気のマレー地区に引っかかるか引っかからないかの3区にある。3・4年前にここに泊まった時は、部屋が中庭に面していたため真っ暗で気がめいったので、今年は通りに面した部屋を電話で予約していたので、多少救われた。一階まで下りて行けばネットにもつなげるので、ネットはあきらめていただけにラッキーに感じる。

しかし無理をしてわざわざフランスまでくるのに、毎年同じ界隈に泊まることに意義はあるのだろうかとも思う。コインランドリーの位置も分かっているくらいで本当に昨日までここでの生活が続いており京都の自分とは違ったもう一人の自分がここに住み続けているかのような気がしてくる。旅の意義が発見だとしたならこれはすでに日常なのだろうかとも思い始めていた頃だ。あることに気づいた。

道を歩く人、カフェの外の席でくつろぐ人すべてがみんなとても幸せそうに目に映るのだ。街頭で二人の幼い子を抱えるようにしゃがみ写真のポーズを取る黒人の父親と子たちの頬笑みを見た時、思わず「美しい」と思ってしまった。普通に歩く家族やカップルの全てがとても幸せそうに見えるのはなぜだろう。そう見える自分自身に驚いてしまった。それより、自分は京都で歩く人たちをこんな気持ちで眺めたことがあっただろうか?

近くのカフェの外の席は明かりもなく、9時半をまわると真っ暗になるのにみな楽しそうに語りあっている。日本のように向かい合っているのにお互いにメールを打っているような光景はない。多分まだバカンスの人も多いのかもしれない。でも近くの公園の芝生に寝転がってくつろいでいる白人やアジア人(近くにチャイナタウンがある)を初めとするさまざまな人たちを見ていると、やはりフランスは豊かな国だと改めて思う。

人通りの激しいスーパー入り口の近くの路上で二人の浮浪に警官が話しかけている。迷惑だからそこで寝ているなと言っているのだが、若い警官はまるで世間話をしているように微笑みながら諭している。のどかな風景だった。翌日そこを通りかかると同じ浮浪者がそこにいた。脇には一杯紙につつまれたフランスパンが置いてあった。

昨日は並木先生とヴェステル先生がヨーロッパ研修でパリについたはずなので電話をしたが、不在で近いのでホテルまで行ったら、前期の授業で教えた学生が一人ぽつんと座っていた。相部屋に学生とはぐれてしまって部屋に入れないと言う。ゼミの他の学生も一緒に連れて行きたかったがその日はその学生だけを連れて行きシャルチエという大衆食堂で食事をした。驚いたのはウエイターがとてもおちゃめでびっくりした。初対面なのになかなかデザートがこなくていらついているぼくにほらと言って他の人に出す筈のメインの皿を差しだしたからだ。

パリは晴れているのに涼しく、マロニエの実がぶら下がっており、大好きな秋の雰囲気にも満ちており本当にラッキーだったと思う。

もうこの地には驚きも発見することもないと思っていたがそうではなかった。日常それ自体が発見に満ちているように、ぼくにとって続いていたこのもう一つの世界も発見に満ちていることに気づいた。(2011年9月1日。番場 寛)

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