踊ること、語ること―寝椅子の上で語ったこと―

ダンスの公演まで残すところ一週間を切ってしまった。昨夜は知り合いの人たちを観客に招いての試演会であった。当日になってもようやくまだ振り付けが決まった段階だったが、どうにか踊りきった。

予想はしていたものの、観客の批評は厳しく、自分なりに工夫したつもりのソロで踊る部分も自分の気付かなかった欠点を指摘され、確かにそうだと思った。思ってみれば何て贅沢な時間の使い方なのだろう。余儀なく強いられている労働の身体ではなく、自分で動きたいように、他人に見てもらいたいように身体を使うのだから。

ところで、忘れないうちに書いておきたいのは、自由に「語る」こと、つまり精神分析での語りについてである。何の制御も拘束もなく心に思い浮かぶままに語ることで、意識的な語らいでは到達のできない自己の無意識を発見することができ、心の病のある場合には治癒につながる可能性もあると見なされている「語り」のことである。

2002年になかば好奇心で、またフロイト=ラカン理論を学ぶもののなかば義務のような思いから分析を始めたのだが、とても分析の終わりまで行けるとは思わない状態で始めた。「精神分析とは何か?」ということを知りたいがために始めたのは「ダンスの振り付けとはどう行うのか?」ということを知りたくてダンスを始めたのと似ている。

毎年夏しか行けないのだが、「国際ラカン協会」の夏のセミナーに出席し、空いた時間を分析に通うのだが、セミナーが終わってからは日に2回通うのだが、かなり疲れる。ラカン派の分析は「短時間セッション」と呼ばれるように、分析家の主体的な考えで被分析者の語りを切る。フランス語の力のせいもあり、僕の場合は長くても20分くらいで一つの語りが終わってしまい、そこで終わってしまう。分析家はほとんど何も言わない。ある回だけお金にまつわる悩みを話したときだけかなり話したがそれはむしろ例外である。

9月2日の一回目の分析で話したことを思い出しながら書いてみる。勿論ここに書けるぐらいのことだから、かなり意識や検閲が働いていることだろう。

「今日は話したいことが二つあり、全く違うことなのでどう始めて良いか分かりませんが始めます。じつは今日何年ぶりでしょう。ルーブル美術館に行ったのです。毎年パリに来ているのにルーブルは久しく行っていませんでした。今回行ったのは、絵を見たかったためというより、今の自分にどんな風に前に見た絵が見えるかしりたかったためです。いわばぼく自身がどんなに変わったか見たかったかもしれません。
 最初イタリア絵画、それも中世とルネッサンス期の絵が飾られている部屋に行きました。
モナリザの部屋に行った時のことです。予想どおり大勢の人だかりができていました。驚いたのはモナリザの絵の前にはすでに木でできた枠があるのに、さらにそれから隔てたところに鉄の柵がもうけられており、観客はそこからしか見ることができないのです。眼鏡をしていても視力の悪いぼくはよく見えません。
 ぼくはふと思いました。ひょっとしてあれは偽のモナリザであり、本物はだれかによって盗まれており、それが複製であることを見破られないためにあんなに遠ざけられているのではないかと思いました。

 別の部屋に行きました。驚きましたどの絵も、みな同じ構図なのです。マリアに抱かれた幼いキリストの絵です。まえに何度もルーブルに来ているのに、今回はまるですべての絵がマリアとキリストの絵だけのような気がしました。
 それと同時に気づいたのはだれも絵を見ている人はいないということです。みなカメラを向けて写真を撮っていましたが、絵そのものを見ている人は誰もいないように見えました。また、殆どすべての人が家族やカップルや友人と来ており、一人で来ているのはぼくだけでした。なぜぼくだけが一人なのだろうと思いました。みな写真をとっており、家族やカップルや友人を演じるために写真を撮っているように見えました。
 それにしてもなぜマリアとキリストの絵だけなのでしょう。ヨゼフも神も描かれていません。神はもちろん描かれないのかもしれません。
 マリアとキリストと描かれない神、ふと「ボロメオの結び目」を思い出しました。人生はとても複雑に見えますが、ひょっとして人生は僕が思っているよりとても単純なものかも知れないと思えてきました。まるで3つの輪からなるボロメオの結び目のように。なんとか考え方を変えなくては…」

覚えている限りではここで語りを終えさせられたというか、終わったのである。書ける程度の内容なので分析としてはけっして実り多い回ではないだろう。

昨日テレビをつけたら偶然、9月から本学にお勤めの鷲田清一先生が出ておられて、「聴くことの力」について語っておられた。「語ること、語り終えること」は自分自身から距離を置いて見つめ、自己を整理することにつながり、それを可能にするのがじっと黙ってその人の語ることを「聴く」ことだと説明されていた。

「聴いている」という確信に支えられ自己の無意識の深みへとはいって行く精神分析というものの本質にもつながる説明だと思った。さらに、ぼくは思う。身体に沈殿しているその人の過去の全てを制御なく明るみにだすことのできる方法の一つとしてダンスのインプロビゼーション、言いかえれば振り付けのできるまでの手探りの身体の動きを「身体の精神分析」のように見なせるのではないかと考えているところである。(2011年9月12日。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中