ブラジル新世代コンテンポラリー・ダンス『マタドウロ(屠場』を観て(元・立誠小学校 講堂にて) 

なかなかブログが書けない日々が続いているのは、体験の激しさに言葉がついていかないからだ。ブラジルのパフォーマンスアートの現在にはだれも興味があると思うが、マルセロ・エヴェリン振り付けの、この作品は以下のように展開した。

仮面を被ったまま裸で壁に向かい後ろ向きになって整列し、犬の吠え声と強烈な音楽が鳴り響く中、屠場の解体作業を思わせるように、刃物をこすり合わせることで、楽器のように音を鳴らすことを15分ほどした後、8人が全員で時計と反対回りに走り出す。

股間の性器を揺らしながら走る7人と、子どものように小柄だが股間の陰毛は明らかに大人だとわかる一人の女性がただひたすら走る姿は、悲惨というより当惑させられるばかりであった。途中で少し変わった走り方をする男性や宙返りをする男性がいることから、かれらが走る以外の能力を持たないわけではないことは分かるのだが、ただ黙々と走る姿を観ていて、もうこれ以上の展開はないと思い知らせた時の感情は、失望であり、怒りであった。ただ走るという行為にどんなメッセージがあるというのだ。確かに犬の吠え声や裸で走る姿は収容所を連想させるが、「暴力」や「境界」を描くのならもっと工夫があるべきではないか。

そんなふうに、ここに来たことを後悔し始めたときだ。ふと思った。ひょっとしてこの退屈さを感じる40分ほどが大事な時間で、最後になにかどんでん返しがあるのではないかと。
しかし50分ほど経過した後、ペースダウンするように走り終え、全員仮面を取り、客席を向いて整列した。

何もなく終わったことに失望したときだ。整列したまま彼らは頭を下げないのだ。拍手を待っているのだろうかと思うが、だれも拍手をせず、かれらもこちらを黙って見つめているというより睨んでいるようにも見えた。その沈黙の時間が3分だったのか5分だったのかとてつもなく長く感じられた。

拍手が鳴ったのはようやく全員が舞台袖に退いてから腰に布を巻き再び舞台に現われたときであった。やはり、の客席を見つめたまま立ちつくす数分間はパフォーマンスだったと知った。それまで一方的に見つめる側で、当惑し退屈していたことがその瞬間に一変した。 安部公房の『箱男』の中の言葉、「見つめることには愛があるが、見つめられることには憎しみがある」そのままの体験をした。見つめ返されたとき初めて、入場料を払った観客としてであれ、無防備な裸で疾走する人間を、退屈さえすることができるほど安全な場所で観ていた自分の立場ということを改めて意識させられ、恥辱に似た感情さえ湧いたのだ。

9日に行われたシンポジウムのときに、演出・振り付けをしたマルセルに質問したのは、走っているときの終わり近くになって、それまで平気で走っていた女性が、胸や性器を手で隠そうとする仕草をしながら走っていたが、それはどういう意味があるのか、それはインプロビゼーションなのか、演出なのかという質問であった。答えは、予め体をさわるようにと指示をしていたがタイミングは女性にまかせてあったということであり、ぼくの疑問には解けなかった。また一人の男が指を一本たてたまま走ったが、あれはヨーロッパでは「質問があります」という仕草だが、このパフォーマンスにおいては観客に解釈はまかされているという説明であった。

あの退屈にさえ感じた50分ほどがより意味を持つためにはさらに何らかの演出、言葉が必要なのではないかと感じた。しかし、あの大部分がただ走っているだけの作品がどうしてパフォーマンスとして成立しているのかという疑問はいまも消えない。ぼくが見落としていた点があるかもしれないので気付いた方は教えて欲しい。(2011年10月12日。番場 寛)

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