「わたしがあなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。なぜならそれではないのだから」(J.ラカン)

秋も深まり研究に身を入れようと思うのに、なかなかそうならない。今てんこさんの舞踏公演(「而今の花」と「ただいま」)を見たり、山田珠美さん、伊藤キムさんの2回のダンスのワークショップに参加したり、しばらくやらないと思った筈のダンスも面白くなってしまった。

大学関係の仕事も所属している国際文化学科の「専門の技法」と「国際文化演習1」の後期の先生方との教え方の研修会に参加したし、また昨夜は図書館が企画した催しで学生自身が書店に行き、自分の読みたい本をその場で選んで図書館に入れてもらうというものに、ゼミの学生(3年生)を連れて行き、本を選んだ。学生たちは実際に本屋(ジュンク堂河原町店)に行ってみると、予想もしなかった自分のテーマにあった本があることに驚いていた。

そのあと四条烏丸のフレンチカフェ(AUX BACCAHABALES)に行き、フランス人との交流会に参加する。座る場所により話すことのできる人が決まるので、その日の会話が楽しくなるかどうかは運である。昨夜は京大に招かれた数学者の男性が目の前にいてあまり話が弾まなかったのだが、ふと今読んでいるラカンのセミネール第19巻『…ou pire(あるいはもっと悪く)…』に出てくる数列の部分が分からないのでその箇所と「ボロメオの輪」を見せたら、急に激しく「ラカンの数学なんかは、ただ人に強烈な印象を与えるだけのもので、あんな数学はまったく無意味だ」と怒るように語りだしたので少し会話を進めることができた。そうなると今度はいかにこちらの話したいことが十分に伝えられないかを思い知らされることになった。

こうした忙しい日々のさなか、じつはその『セミネール第19巻』に出てくるある言葉のことをずっと考えている。それは1972年2月9日のセミネールに出てくるものであり、「わたしがあなたに贈るものを拒絶してくれるように頼む。なぜならそれはそうではないのだからJe te demande de me refuser ce que je t’offre parce que: c’est pas ça」という言表である。

「あなたに何かを贈るのだが、それを受け取らないでほしい」という意味だったら少し変なだけだ。不思議でそれゆえ人を惹きつけ考えさせるのは最後の「なぜならそれではないのだから」という部分だ。われわれは他人に何かを受け入れてもらいと言葉や仕草で示しながらもそれが本心から出た言動でないとき、心の奥底では相手がそれを拒絶して欲しいと密かに願っていることがある、しかしそんなに単純に終わらせないのは最後の c’est pas ça( そうではない)が何を指しているのか曖昧であるからである。

ラカン自身はそれぞれの可能性をとりあげ次々と否定していき、ついにはわれわれが問題にすべきは、このc’est pas çaが何であるかを知ることではなく、これらのそれぞれの動詞(頼む、拒絶する、贈る)のそれぞれを他の二つからなる結び目から解きほぐすことで、それらの意味の効果を発見できると説明する。その意味の効果とはラカン理論ではお馴染みの「対象a」だと付け加えている。そして3つの輪からなる「ボロメオの結び目」への説明へと展開している。

はぐらかされたような気がするが、『セミネール20巻、アンコール』の1973年5月15日のセミネールにも出てくるこの不思議な言表には「ラカン協会」版の『…ou pire』の同日のセミネールにはラカンが漢字で訳したものを添えている。それで中国の詩か諺に出典があるのではないかと思い、中国語学専門の浦山先生にお聞きしたところ、出典は見つからなかったが、フランス語でこれについて触れているものが見つかったと教えていただいた。驚いたことに「わたしの記憶では」と書いているのでラカンのセミネールに出席していた人の記述であり、そこにも漢字が添えられていた。

フランス語を自分で漢字に訳せるほどラカンは漢字に精通していたとは考えにくい。どなたか出典が分かったら教えて欲しい。

しかしなぜ自分がこの言表に惹かれるのか改めて考えると思い当たることがある。これはフロイトが夢分析でとりあげ、ラカンがそれを展開した「肉屋の女房の夢」と呼ばれるヒステリー患者の言葉に似ている。その女性はキャビアが大好きで、夫に頼めばくれることは分かっているのに、「わたしにキャビアをくださらないでね」と頼むのだ。それはラカンによれば、そのヒステリー患者は自分の欲望を不満足なままにしておきたいという顕れであり、「不満足な欲望をもちたい」というのがヒステリー患者の欲望であると同時にもっとも人間の欲望を表しているものだと説明する。「わたしがあなたに贈るものをあなたが拒絶するようあなたに頼む」という言表にも同じものを感じてしまうのだ。

自分から相手に何かを贈っておいて、同時に相手がそれを拒絶することを密かに祈っている。そんなことはあなたにもないだろうか? ただここで気になるのはラカンはこの「贈るoffrir」という動詞は「与えるdonner」ではないと注意を促していることだ。そして「ポトラッチ」を引き合いにだして「贈与」ということにも触れている。さらに考えてみたい。
(2011年11月3日、この記述の原因となった人の命日にて。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中