「断片化」という方法―高橋悠治『カフカノート』―

 もう一月ほどたとうとしているが新聞に『絶望名人カフカの人生論』という本の広告が出ていて驚いた。ニーチェやカントやブッダなど有名な人の著作の中から抜き出した言葉を集めそれに注釈をつける本を最近特に目にする。それでもカフカのそれが、しかも「絶望名人」だなんて…うまいネーミングだ。さっそく本屋に行きめくってみたが買う気持ちは起こらなかった。しかし、カフカ自身は人前で自作を笑いながら朗読していたのだという記事を最近読んだことがある。十年ほど前、パリのバスチーユのオペラ座で『審判』がオペラになっているのを見て驚いたが、絶望的な作品でありながらカフカの作品が人を惹きつけてやまない秘密もそこにあるのではないだろうか。

同じ日だったかどうか忘れたが同じ書店の同じ棚に高橋悠治のカフカの名をつけた2冊の著作が並んでいた。胸が高鳴った。「カフカ」「高橋悠治」二人とも名を目にしただけで昔の思い出が甦る人の名だ。

高橋はずっと昔『ロベルト・シューマン』を読んでそのピアニストに興味を持った。それは、シューマンの時代背景とともに音楽家がどのように生きたかを冷静に分析するとともに自らの生き方を検証している著作だった。その本の中で書かれていたことだったと思うが、今も覚えているのは、当時の多くの農民の反対にも関わらずその土地を奪い建設した成田国際空港を使って外国に行きたくないということで、海外での演奏をやめ、さらに西洋の論理で作られた楽器であるピアノを捨て(どのくらいの期間だったかは分からない)、アジアの民衆と繋がるのだという趣旨のもとに、「水牛楽団」を作り、自分は大正琴を演奏したことだ。

当時学生だったぼくは多摩美術大学の学園祭にその「水牛楽団」の演奏を聞きに行った。ピアノに比べるとあまりにも小さな楽器にすこし身をかがめて演奏する音は明確でも悲しくなるような心細さを感じた。バッハを弾かせれば容易に多くの人を集めることができ、それだけでなく現代音楽の巨匠のクセナキスの弟子であり翻訳もしている人がすべてを捨て裸でおもちゃのようにも見える楽器を演奏している姿に感動した。

その後であったと思う。いまはなき西武美術館でロシアバンギャルドの芸術家マレーヴィッチの劇作品を日本人が上演した際に高橋が演奏したのだが、前衛的でその素晴らしさは分からなかった。覚えているのは山下洋輔で有名になった、ピアノを肘で一気に打ち鳴らす方法と、そのあとほんの短い間だけ演奏された、映画「灰とダイヤモンド」の挿入曲が得も言われぬほど美しかったことである。

あれから何十年経過したのだろう。数年前京都コンサートホールでようやく高橋のピアノ演奏を聴くことができた。ピアノを弾いていたが曲の合間に語ることを聞いているとやはり彼は全然変わっていないと思った。この現代に生きるということはどういうことなのか、研ぎ澄まされた政治意識、時代感覚、それは幅広く世界と日本に関心を寄せるだけでなく、過去にも想いを寄せることだ。

そのとき演奏した曲のひとつに万葉集に収められている話をもとにしたものだったと思うが、覚えているのは、ある仲の良い鹿の夫婦がおり、ある日妻の方が夫が漁師に射られる夢を見たという。それで海を渡って向こうの島へ行くのはやめて欲しいと懇願する。しかし夫は聞かず泳いで渡ろうとする。そして人間に見つかり殺されてしまうのだが、実はその夫が渡ろうとしたのは向こうの島に別の恋人の鹿がいたという話だ。

まるで粘膜のように敏感な時代感覚を持ちながらも幅広く深い読書と思索によって培われた教養をもつ人が弾くピアノに、より関心をいだいた。終わってから買ったCDにサインしてもらうときに「昔『ロベルト・シューマン』を読んで感動しました」と小さな声で伝えた。

そんなピアニストが出版した『カフカノート』はカフカのノートブックから集めた36の断片を、「標準版」ではなく1992年に出版された「手稿版」から逐語訳に近い日本語に訳したものだと本人は説明している。ドイツ語の原文とその逐語訳に添えて自分の作曲したスコアを載せたものだ。

一緒に本屋に置かれていた「カフカ/夜の時間」は前に買っていて全部読み終えなかったので今回ちゃんと読もうと探すのだが見つからない。ただそこに「可不可」という記述と、カフカが日本語に訳すと「引っかく」という意味を表す言葉で「書く」と行為を書いていることに着目していていたことを覚えている。

高橋が今回訳すのに、手稿をあえて選び、それをドイツ語のリズムをできるだけ再現するように逐語訳をしていることの狙いは分かる。カフカが途方に暮れ、言葉がそこでとぎれている部分、思考の発生の瞬間を再現しているかのような記述が高橋自身によって訳され、しかもそれが演奏し、歌う作品としても提示されている。

ずっと昔研究していたロートレアモンが死の直前書いた『ポエジー』という作品はすべて断片からなり、しかもその多くは他の文学作品のパロディから成る作品である。「断片化」というテーマで発表し、論文を書いたことがある。何かまとまった作品として完成させようとするとつじつまが合うように整えなくてはならない。そこで失われるのはむしろありのままの思考の真実である。断片であれば他の断片との矛盾も許される。その手法を採用した有名なものとしては、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』があげられる。

どれを選びどうつなげるかは読者に任せられている。前にこのブログでポーランドの「テアトル・シネマ」の演劇のワークショップに参加したときのことを書いた。人間の体を断片化し、各人のそれぞれの部分にまつわる「小さな物語」を演出家が集め振り付けをするが、繰り返しても各人は最初の「小さな物語」の「みずみずしさ」を失わないようにしなければならないという説明であった。思考の発生をそのまま残し、他の思考とのぶつかりを敢えて調整しない方法としての断片化という方法に着目したこの本は、こんなことをカフカは書いているのかという驚きに満ちているのだが、かなり有名な短編も一つだけ訳されている。

それは「父の気がかり」という作品でぼくも「掟の門」「断食芸人」と並んで絶えず思い出されるカフカの作品の一つである。そのなかに出てくる「死ぬものすべてには、まずなにか目的があり、なにか活動があって、それが衰えていくものだが、これはオドラーデックにはあてはまらない」と語られる謎の生き物の記述が本当にすごい。前に『アエラ』の大学の頁に書かせてもらったとき「オドラデクの恐怖」という題で書いたくらい(大学のホームページ、「読むページ」の「今という時間」で読めます)気に行っている作品でもある。

今回も昔フランスで見て忘れられない「カフカの夢」という作品について書くことはできなかったが、自分にとっての本当に支えとしている二人が同じ著作で結びついていることを嬉しく思う。(2011年12月11日。番場 寛)

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