「伝統の身体」とは?― 「金梅子(キム・メジャ)の仕事」の公演とシンポジウム―

たぶん物理的には時間は均一に流れているのだから師走だからといって急にあわただしくなる筈はないと思うのだが、忙しい。

来年度に向けての準備の作業の締め切りに追われていることで、最近ブログが書けないのではない。多くの人の中に検索でひっかかったものとしてこれを読んでいる人がいること、つまり何年たっても残るアーカイブとして読んでいる人がかなりいることを知ったからだ。ちゃんと書かなくては、と思うことが呪縛になってきていることに気づいた。これはまずい。これは論文ではないのだ。もっと気楽に書かなくては。
 
実は12月10日に京都造形芸術大学で行われた「越境する伝統―韓国舞踊の場所から
金梅子(キム・メジャ)の仕事」と題された舞踊公演を観て、翌11日のシンポジウムを聴いたのだが、ちゃんと書こうと思うととても書ききれないことに気づく。

最初の「サンプリ」という作品には、見たことのないものを観たという印象を受けた。チマチョゴリを現代風の舞踊衣装にアレンジしたかのような、胸元より下がふわふわとウエディングドレスを思わせるような白で統一された衣装を来た数人の女性たちが、大きな花のように右手で持っているのはわしづかみにした新聞紙で作ったものであった。

回転となだらかな曲線的な動きを生かした各個人の動きを集団としてそろえたり時間的にずらしたりして踊る様を観ているとただもう美しいとしか感じず、これが何を表そうとしているのかなどと考えることを忘れていたくらいである。

他の作品もいまは言葉で説明することはできないし、翌日行われたシンポジウムも本当にすばらしく内容の充実したものだったがここで書く時間はない。今記憶に残っていることは、渡邊守章先生の言われた、能にせよ日本舞踊にせよ日本の伝統芸能の舞は必ず言葉を伴っているのに対し、西洋の舞踊と同様に、それを伴わない舞踊は決定的に違っているという指摘と、山田せつこさんの、何がコンテンポラリーダンスの本質なのかということをダンサーが自らに問わなくてはならないのが現代であり、自分は身体のヒントを舞踏や能に求めたが、日本の若手のダンサーは武術の身体にそのヒントを求めているという説明であった。

シンポジウムで批評家の竹田真理さんが、何がコンテンポラリーをなす要素なのか、その要素を組み合わせれば無限にダンスを創れるようなその要素を探りたいと言われていたが、前に土方巽の研究会のときに「舞踏符」というものが問題になっていたことを思い出す。音楽の音符のように、踊りを個々の「動き」に分解して、それを組み合わせてダンスになるのではなく、むしろ成り立たせようとする全体が先にあってそれに向かうものとしてことの動きが生まれてくるのだと思う。ではその「全体」とは何かと考えると、それは身体がいやおうなしに負っている「伝統」であり「民族性」ということなのだと思う。その「伝統」や「民族性」というのは他を排除するものではなく、その「今」という時間を生きている各個人の身体の最も強いよりどころとなるという意味において、逆説的だがその「伝統」や「民族性」を超えて行くことのできる普遍性、世界性をもはらんでいるものだと思う。

その例となるだろうが、最後の「光」という作品につけられた力強い音楽を演奏したのが土取利行さんという日本人で、かれはパリを拠点に世界中で活躍しているピーターブルックの劇団の音楽を長年にわたり担当している人である。

かれの説明によれば、奈良時代の日本に伎楽と一緒に伝わった音楽は半島から伝わったもので、いつか久しく日本からは強いリズムのある曲は途絶えていたという説明であった。

グローバル化が進めば進むほど逆に民族的なものがその輪郭を際立たせると同時にそこに生きるわれわれの心に染み透っていくのだということを改めて感じさせられたすばらしいこの2日間については語りつくせない。 (2011年12月20日。番場 寛)

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