あまりにもリアルな小説、桐野夏生『ポリティコン』

小説はそれが読者によって読まれる時代や状況によって異なった意味を帯びてくる。今回帰省する際、前に買っていて読んでなかったこの本を手にしたのはまったくの偶然であった。前に『IN』という小説についてここで書いたことがあるが、とくに桐野のファンであるというわけでもなかった。

列車の中で上巻を読み進め、腰を痛めて痛みに耐えながら読んでいると次第に引き込まれていったのは、まさにこれは帰省先の町(村)が直面している問題であり、自分が直面している問題だけではなく、現代日本が直面している問題を架空の村を設定することですべて盛り込んで読者に思索させる小説だと思い知らされ、下巻を持ってこなかったことを後悔していた。そして京都でまだ痛さにうなりながら床で下巻を読了した。

この小説の帯に書いてあるように、確かにここでは「過疎、高齢化、農業破綻、食品偽装、外国人妻、脱北者、国境・・・・東アジアをこの十数年間に襲った波」というものが架空の村を舞台に圧縮して繰り広げられている。

ぼくの田舎でも高齢化が進み、両親が倒れ、耕作できなくなった田を委託していた人のうちの何人かの方から、もう年を取り耕作できないので契約を解除したいと言われた。新年会でも地元で自身はサラリーマンをしており同じように田を委託している人から、田を持っていても賦課金が嵩み、わずかな小作料ではどうしようもない、という嘆きを聞いた。

田畑を耕作している人も殆どすべてがサラリーマンとの兼業農家で農業の先行きはとくにTPP問題を控えている今、いっそう暗く感じられる。

この『ポリティコン』は、トルストイの文学とくに「イワンの馬鹿」に心酔した人が財産と労働力を共有し、助け合い、しかも演劇という芸術表現の欲求をも満たしながら農業を営み共同生活を送るという目的で山形県に設立された理想郷「唯腕村(いわんむら)」を舞台に繰り広げられる。

その村の創立者の孫として生まれそこで育った高浪東一は、そこになじめず一度は東京へ出るが戻って、結局は村の創立者の子で理事長の父親と同じように権力者になると、その村に流れ着いたかのように住み着いた外国の女性たちを性的欲望を満たす対象にしてしまう。

ここまで読んだときこれはフロイトの「トーテムとタヴー」を下敷きにしているのかと思った。フロイトの「トーテムとタヴー」には、実際には遡れないほどの古代において「原父」と呼ばれる、あるトーテムで絶対的な権力を握っていてすべての女を意のままにしていた「父」を息子たちが協力し、殴り殺し食べ尽くしたことで「父」と同一化しようとしたが、その結果、お互いの争いを避ける目的と、「父」を殺害した罪責意識から、「事後的服従」というかたちで、以後「トーテム動物の保護」とインセストの禁令という二つのタヴーを形成するもとになったという説明である(岩波書店『フロイト全集12』門脇健訳、pp182-186参照のこと)。

小説の「唯腕村」には実際「共生―我、友を愛すために生き、土を愛すために生き、人のために生きる」と書かれたトーテム・ポールがあってやがて観光名所になるというように戯画化されている。この村の理事長の素一は村で生活しているアジアの各国から日本の農村に嫁いだもののさまざまな理由で夫と別れたり、ほかに行き場がなかったりで住み着いた外国人の女性たちと性の交わりをしていた。

この小説の主人公で素一の息子の東一は、父親と同じ道を歩み、父親の死後は理事長として権力を握り、女性に対しても父親がしたことと同じことを繰り返してしまう。しかしこの小説が「トーテムとタヴー」と明らかに異なっている一番大きな点は「宗教」の問題が書かれていないことではないだろうか?事実この小説の最後はあとで説明する北田(本名クニタ)の葬式で終わっているが、そこにかかる金銭的な問題が浮き彫りにされている。

私有財産を禁止し、年金までも共有し、みなで助け合い農業を営み共同生活を送るだけでなく、「演劇」の公演もやるという集団が、やがて「生きるため」という目的で主人公が中心となってさまざまな工夫を計画し実行していく。その過程で「有機農法」など、作物が商品として流通することを追及していく過程で偽装の問題も起こってくる。

東一が父親のように信頼を得られないまま権力を行使しようとするうち、村が分裂してしまったとき、かれの唯一の味方である北田という男(実はクニタという本名だとわかる)は村の創立の理念は古いと言う東一にこう言って諭す。

「わかっているよ。古いよ、確かに、古色蒼然としている。だけど、その理念で昔の人が動かされて、こういう村が出来たわけだよね。人間てのは、やはり高邁なものに動かされるんだ、違うかな」

これは夫婦でもなく、親子でもない女と子供を家族と偽ってその村に住み着くことに成功した北田の言葉であるだけに考えさせられる。かれと一緒にその村に住み着いたアジアの女性たちの一人は、ここには人と人との交流がありそれが心地よいのであって、お金のためだったら池袋に行くと言う。

人と人とが信頼しあい財産も労働力も共有して助け合って生活するという「理想郷」は、何とかみんなが生活できるようにと経済的な工夫をしていく過程で「絶望郷」へと変貌していく。

あまりにも豊かなこの小説を論じるには頁が足りないが、作者が投げかけた大きな問題の一つは、何が人と人とを結びつけることができるのか、という問題であるように思える。

そこで明らかになってくるのが、「血縁」とそれ以外の関係である。「唯腕村」はどうして生まれることができ、それがどうして「絶望郷」へと変わってしまったのか。「血縁」以外の結びつきで人と人とは完全な信頼関係で結びつくことはできないのだろうかと問いかけているようにも思える。それは下巻の帯に「「絶望郷」に咲く。中島真矢 まるで嘘のような孤独」と書かれている、もう一人の主人公、中島真矢が最後まで生きるよりどころとして最後まで探し求めるのが、幼いころ別れた母親であることと対照的に思える。

「血縁」以外に、人と人を結びつけ、一緒に楽しく生きることを可能にするのは「理念」なのか? その「理念」はこのグローバル化の波に洗われた高度資本主義社会においても可能なのか? そう考えてみるとこれは一農村の話ではなく、ある企業、ある大学、すべての共同体のあり方への問いかけだと気づく。これはあまりにもリアルな小説だ。(2012年1月14日。番場 寛)

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