「クラウド」と「浄土」

 田舎に帰って、腰の痛さに泣きながら寝ころんで新聞を眺めていた時、ある記事が目に留まった。それは「記録は永遠の生命か」(朝日新聞1月9日)というタイトルの記事だ。デジタル化した情報を自分のパソコンの記録媒体ではなく、「クラウド」と呼ばれるものにあずけることで、無制限に情報を残しておくことができ、その仕組みを生かし、「ライフログ」と呼ばれる形式で自分の人生の全記録を「クラウド」に残しておこうとすることが最近行われているという。

しかし新聞の記事の筆者(神庭亮介)によれば、こうした人類の自己記録は、歴史をさかのぼれば石器時代の洞窟壁画にすでにみられ、日本でも元禄時代に18歳から45歳で死ぬまでの記録を37冊の日記に残した朝日文左衛門(名前それ時代が暗示的だ)という人物がおり、そこには「ありのままを書き留めたいという欲求の根本には、自己愛があった」と みなす神坂次郎の解釈を紹介している。確かにこのブログを書き続けられるのも「自己愛」とでも呼ぶしかない情熱に支えられているのかもしれない。

さらに神庭は、現代のフェイスブックの流行や、家系図の作成を業者に依頼する人が、特に東日本大震災以後増えていることにも触れている。

この新聞の記事の導入部は昨夏、東京の青山円形劇場で上演された「クラウド」という劇の中で発せられる台詞「人生もハードディスクも有限だけど、クラウドは無限だ。つまり、永遠に生き続けられる」の引用から始まっている。

寺山修司は絶筆「墓場まで何マイル?」において「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分」と書いている。自分の全人生を永遠に残すことが出来たら…それはたとえ、「自己愛」だと言われようとそう望む気持ちはよくわかり、それを可能にするのが「言葉」だと思う。

しかし人生の全体験を記録するのに必要な記憶容量は1~10テラバイト程度のハードディスクに収まってしまうくらいの容量だと説明されている。 自分の書いた論文なんてどれくらいのフラッシュメモリーに収まってしまうのだろうと前に考えてなさけなくなったことを思い出した。そのなさけなさは、自分の時間をかけた努力が何々バイトというデジタルのわずかな量として表現されてしまうことにあったのだと思う。

しかし、新聞の記事はもっとも重要なことを指摘して終わっている。それはおそらく劇の台詞だろうか、「封印したい記憶が生の状態で迫ってきた時に、人間は耐えられるだろうか。(…)見たくないものが目の前に現れないようにするなど、『忘れる』ための機能が需要になってくると」という引用で終わっている。

自分で見るのではなくても、他人の目に触れるということが耐えられないこともある。絲山秋子の芥川受賞作品、『沖で待つ』の最後は、恋人でもない同僚の遺言を守るため、死んだその同僚の部屋に忍び込み、生前依頼されていたように彼のパソコンのハードディスクを破壊する女主人公が感動的であった。

その恥部までも含め、その人の人生すべてとも言っていい「言葉」、それがただ0と1の記号の組み合わせで電子化されてどこかで保存され永遠に存在し続ける。それは「命」ではないが、何らかのものが存在し続けるのであり、その人がこの世に存在しなかったならば存在しえなかったものだ。

そう考えたとき、ふと「あの世」とか「天国」とか「浄土」と呼ばれる世界のことが頭に浮かんだ。かなり前から疑問に思っていることがある。それはある人が亡くなるとき、その人の存在というか、何らかのものがすべてなくなるわけではないということである。「魂」ということは信じないとしても、残された人の心に確かにその亡くなった人の何かは存在し続ける。それが「形あるもの」であれ、ないものであれ、何らかの形式で差異化されたものでなければ「在る」とは言えないだろう。

ところがその存在し続ける「場」はどこなのかと考えると分からなくなる。というのは、極端な場合、「認知症」で最後を終えた人のことを思ってしまうからだ。もし「あの世」を「場」のようなものとして考えてしまえば、亡くなった時の「認知症」の状態で永遠に存在し続けることになる。それではあまりに耐えられない。「場」として考えるのをやめてしまったとしても、残された人の心の中であれ、「あの世」であれ、その最後が認知症で亡くなった人のなんらかの存在は、どこにどういうあり方で存在していると考えればいいのだろうか?

あまりに素朴で愚かな疑問かもしれない。でも「浄土」という概念は自分にとっては「クラウド」と同じく依然として謎である。今も世界のあちこちに残る、権力者が造らせた巨大な墓と同じく、「クラウド」への自己記録の保存は、人を陶酔させる「永遠」への切なる願いと同時に「忘れる」という概念の重要さをも思い出させてくれる。(2012年1月20日、番場 寛)

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