「君のために、恋人よ」(ジャック・プレヴェール)

 授業が終わり、今は試験の真っ最中だ。一年間教えているクラスの中で、週2回顔を合わせるフランス語のクラスがあるが、それは教えていて本当に楽しいクラスであった。

昔退職を控えたある先生が、このくらいの年になるとすべての学生が可愛くてしかたがないと言うのを聞いて驚いたことがあるが、自分もその言葉を実感する年齢になったのかなと思いそうになるほどみんな可愛く思えるのだ。
 
かならずしも理解が十分でなくても、驚くほど皆、一緒に元気よく発音し、昔の自分だったら気後れするような、男女組になって一組ずつ前に出て行うロールプレイも喜んでやってくれた。

そんな授業で、これはみなさんへのぼくからのプレゼントだと言ってコピーを配り、説明し、みんなである詩を朗読した。それは昔フランス語を教え始めた頃、一年生の教科書の最後の頁に載っていたもので、優しいフランス語でありながら深く、本当にそうだと思う内容を伝えている詩だと思ったその詩である。何十年も前に読んだ詩なのに、今もそれに対する感心したときの気持ちは少しも変わらない。(原文はネットで簡単に読めるので探してください)。

君のために、恋人よPour toi, mon amour
                    ジャック・プレヴェール Jacques Prévert

ぼくは君のために小鳥市場へ行った
そして小鳥を何匹か買った
君のために
恋人よ

ぼくは花市場へ行った
そして花を何本か買った
君のために
恋人よ

ぼくはくず鉄市場へ行った
そして重い鎖を買った
君のために
恋人よ

そしてぼくは奴隷市場へ行った
そしてぼくは君を捜した
でも君を見つけることはなかった
恋人よ

「誰かを好きになったときこの詩を思い出してください。恋人であれ、ともだちであれ、親子であれ、人を好きになることは素敵なことなのに、好きになったことでその人を束縛しようと思うと、みなさんは不幸になります。他人を束縛することは誰にでもできません…」

学生にはこの詩が、「起承転結」の構造をとっており、相手への愛の感情から出た行為がやがて「所有」「束縛」したいというエゴイズムに変化してしまうことを偉そうに説明してしまったが、むしろこれは、何年たっても苦い経験を繰り返してしまう自分への戒めであった。

この詩を読むと必ず思い出すのが、高野文子の『絶対安全剃刀』(1982年)という作品集に収められている「午前10:00の家鴨」という漫画だ。今は手元にないのだが、マリーとよばれる若い女性は男と同棲しているのだが、相手に対して「何も期待しない」「何も欲しがらない」ということを貫いているから幸せだということが、人形の家鴨の語りで描かれていたものだった。

今回このプレヴェールの詩を読み返してみて、自分が何十年も前とまったく変わっていないことに驚くというか呆れてしまった。

いつも引用するのだが、ジャック・ラカンは「愛するとは、自分の持っていないものを与えることだ」と繰り返し言っている。「君たちへのプレゼントだ」なんて言って「自分のものでもない詩を贈ったのは、ひよっとして「愛」なのだろうか?

ラカンはある箇所でこう付け加えている。「愛するとは、自分の持っていないものを与えることだ。相手がそれを望まないのに」とも(笑)。

君たち、一年間本当にありがとう。(2012年1月26日。番場 寛)

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