「家族」への問い― マイク・リー監督「家族の庭」、園子温監督「ヒミズ」を見て―

遠くに住む友人と電話で話したときのことである。彼女も偶然「家族の庭」という映画を見たことを話した。それは離婚したり恋人と別れたりして、今は孤独で不幸な暮らしをしている独身の男女の友人を、自宅に頻繁に温かく迎えている老夫婦をめぐる映画であった。自分たちの庭での作業を楽しみとしている老夫婦は今も愛し合っており、優しい一人息子がおり、やがて結婚することを予感させる彼の恋人が現れるという幸せな生活であり、かれらの不幸な友人たちと対照的である。

映画の最後の方で何もかもうまくいかなくなり、予告なしに突然彼らの家を訪れて泣くその女性に言った「わたしたちは家族なのよ」という言葉に含まれた「あなたは私たちの中には入れないのよ」という意味に、ぼくのその友人は胸を刺されたように感じたと言った。

ぼくはその彼女の言葉に驚いた。なぜなら離婚をしたとはいえ今も、立派に成長した娘たちや別れた夫ともそろって会うこともでき、それでいていまは恋人ともうまくいっていると聞いていたからだ。そんな幸せそうに見える彼女でさえ、憧れる「家族」とは何だろうと考え込んでしまった。

そして話題の「ヒミズ」を見た。漫画の実写版ということだが、3.11の大震災後、園子温監督がシナリオを描き直したと言われているように津波が去った後の荒廃した風景が、モーツアルトのレクイエムの冒頭部とともに流されるとき、いやおうなしに、母親からは見捨てられ、父親からは「お前はいらないんだ」「あのとき死んでいれば保険金が下りたのに」と言われ殴られる住田少年(染谷将太)の絶望に打ちひしがれる。

一度はためらったものの、結果的にはその少年に殴り殺されてしまう父親は、ただ平穏に日々を暮らせさえしたらいいという少年の最小限の願いさえも妨げてしまう存在である。そうした少年にとって「家族」とはマイナス以下の存在でしかなかった。

そんな彼を救ってくれたのは、同じく家族から見放された同級生の少女(二階堂ふみ)であり、彼の家の近くに住みついたホームレスの男たちであった。いわば彼とは血縁関係のない人たちである。

この映画であざといほどうまいと思ったのは、絶望した少年が、かれを慕う同級生の少女と添い寝をして一夜を過ごしたときに起き出し、やくざが置いていった拳銃を取り、池に入って自分の頭にそれを当てるシーンである。最初空に向けて2発発射したあと頭にあてたあと銃声が聞こえたことで、かれが見た夢のように自殺したのかと観客に思いこませ、少女がポケットにため込んでいた少年への非難の言葉の代わりとしての「呪いの小石」を投げたとき、水の中から少年は現れ、そのまま警察に自首すると言い、それに少女はつきそい、泣きながら「スミダ、ガンバレ」と言いながら走るところで終わる。そのとき同時に励ます言葉として発せられるのが教室で教師が大震災を受け、住田に向け励ますつもりで言った「お前はたったひとつの花なのだ」とう言葉であることに驚かされる。教師が言ったときにはできあいの空疎な言葉として響いたそれが、少年の絶望を理解し共感し、励まそうとする少女から発せられるとまったく違った言葉として響くことに驚く。それは少女が繰り返し、少年に暗唱していたフランソワ・ヴィヨンの詩の一節(自分のことだけが分からないという嘆きの詩)が映画の最後で少年によって「反復」されることで特別な意味を帯びることとも重なる(またしても「詩」だ。園子温監督の名には「詩音」が隠されているのでは、と思わせるほど彼の作品には「詩」も大事な役割を果たしている)。

少女は少年が刑を終えてでてくるまで彼を待ち、そのとき一緒に結婚しようと言う。親による子への暴力や育児放棄のニュースは耳にしていても、映画に挿入された圧倒的に迫ってくる大震災後の荒廃した風景の実写を前にしては、この映画のような親はどこか誇張されたような印象を受ける。これはむしろ、大震災により家族を失い、自分が生き残ったことへの絶望に似た感情を抱いているかもしれない被災者の心理の隠喩として描いたのだろうか?

「家族の庭」でも、実の息子と心が通いあわない、夫の兄の家庭の姿も対照的に描かれている。「家族」だからといって決して人と人とが結びつけられるわけではないのだ。このブログで前に何回かNHKの朝ドラの「てっぱん」について書いたときにも触れたが、なぜ「わたしたちは家族なのだ」という言葉に人はすがるのだろうか? 「血縁」ではなく「理想」によって結びつけられたはずの共同体としての村を描いた桐野夏生の小説『ポリティコン』でも主人公の少女が最後にすがるように探し求めるのは幼いころに分かれた母親であった。

「ヒミズ」の中で自分は盗みの罪を犯してまで少年の親の負った借金をやくざに返そうとする震災ですべてを失ってホームレスになった中年の男(渡辺哲)は「なぜならあの子は日本の未来なのだ」というようなことを言う。

劇映画という形式においては、それを見れば、「悲惨」という、すでにできあがった感情にいやおうなしに襲われてしまう震災後の風景を挿入することは、どのように評価されるべきなのだろう。スラヴォイ・ジジェクが『パララックス・ヴュー』という著作においてドキュメンタリーとフィクションについて論じていた箇所が思い出される。ドキュメンタリーで描くと嘘になり、フィクションでしか表現できない真実というものがあるということをキシェロフスキーの映画を例にとって論じていた。「家族」という一種の虚構を据えないと人と人との真の結びつきは描けないのだろうか?

それでも「ヒミズ」は「家族の庭」と同じく、紛れもなく感動的な作品であることは間違いない。これを観ている観客は、被災者への想いを抱きながら、ヴェネチア国際映画祭の会場の観客と同じく「スミダ、ガンバレ」と叫び続けるだろう。(2012年2月9日。番場 寛)

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