ダンスにおける「言葉」との格闘(kikikikikikiのワークショップ、「踊りに行くぜ!!」II vol.2)

 ようやく腰が治って会議の合間をぬってダンスを観たり、ワークショップに参加したりしている。いままで4回その公演を観て、そのたびにアフタートークのとき偉そうに批評を述べていたkikikikikikiが京都芸術センターでワークショップをやるというチラシを見つけてすぐに予約して一回のみ受けることができた。

参加するとき少し気になったのは、彼女たちのダンスをことあるごとに批評していただけではなかった。ダンサーとして今認められ上り調子にある彼女たちのファンもきっと若いダンサーの卵であり、ひょっとして若い人たちだけの中に入ったら恥ずかしがらずに踊れるだろうか? 

しかしそれは杞憂にすぎなかった。Ki6のメンバーの野淵杏子さんともう一人を除けばまったく違和感のない参加者だった。舞台で見たことのある目の覚めるようなオレンジ色に水玉模様のついた長いパンツに五本指のソックスをはいて現れたきたまりさんの指導が始まった。

念入りなウォーミングアップのときに完全にできなかったことの一つに胴体の重心を移動させ、それにより骨盤の傾きを変える動作である。きたさんのその動きを見ているとそれに腕の動作を自然につければそのままダンスになると思われた。

実際の練習は次のように段階的に行われた。室内を自由に歩いているとき誰かが止まり、それに合わせて全体も止まり、誰かが動き出したらそれに合わせて動く。次に止まった人が自分の名前を言うようにし、次第にそこに別の言葉をはさむようにし、やがては踊る人同士の会話のように言葉を交換する。

それら一連の発声をあくまで踊る動作を伴って行う点が重要なのだ。さすがに普段から踊っているki6のメンバーの野淵さんは意識的な発声にしろ、動きの高低、動作の多様さでわれわれとは明らかに違っていた。
 
前回ここで触れたエルヴィ・ジレン振付の「KITE」は全く言葉なしの作品であったが、同じ京都芸術センターで行われた「踊りに行くぜ’!!」Ⅱvil.2 京都公演では3つのグループのコンテンポラリーダンス公演を観たが、ダンスと「言葉」という観点から対照的な踊りであった。

鳥取県鹿野町の「鳥の劇場」で地元の住民の主婦や働いている男性を中心に結成された「とりっとダンス」の坂本公成作・振付・演出「それから六千五百年 地球は寝ているだろう」を昨年観たときは、正直言ってぼくのグループ「ロスホコス」のぼくの担当分のダンスのテーマとの類似(喪失と再生への祈り、etc.)に驚いたのだが、あまりに台詞が目立って、表現というより説明になってしまっているのではないかとう印象を受けたが、今回は全員の動きが連動していて言葉と遊離している感じを受けなかった。少し変えたという振り付けのせいだったのだろうか?

Aプログラムの 菅原さちえ作・演出の「MESSY」は3人の若い女性の自己の自伝的な自己の模索をダンスにしたものと受け止めた。最初に崩れ落ちるように倒れることを菅原が繰り返すところから始まったと思うと、田中夢のクラシックバレーに培われたと思われる身体がなす見事なのびやかなダンスが繰り広げられ、続く展開部分に期待を抱かせたのだが、緒方佑香の靴を頭にのせて早口言葉で自己の歴史を語るあたりから、演劇的側面が強くなり、互いに服を脱がせあい、床に散らばった衣服とともに投げ上げる動作が繰り返される。

一番疑問に思ったのは、3人とも半裸になっておそらくそれぞれ前の自分とは別の自分に変わった筈なのに、最後はまた菅原の崩れるように倒れる動作で終わったことだ。打ち上げのコンパのときに、演出の菅原から直接話を聞くことができた。彼女の説明を聞くと僕の予想は殆ど外れてなかったようだ。それで彼女にはぼくの考えを伝えた。
ダンスは「差異」と「反復」で成り立っている。「反復」が意味をもつとしたなら、たとえ同じ動作が繰り返されたとしてもそこには「差異」がなければならないと。

考え、もがき自分のダンスを探っている彼女の話を聞くのはとても楽しかった。このブログで紹介した首藤康之の言葉を思い出した。彼女こそ「落としてしまえば割れてしまいそうな真っ白なお皿のような若さを、発散していた。彼女の未来のダンスを観たいと思った。

3つのグループのダンスで圧巻だったのは、青木尚哉 作・演出の「4….soku」という作品であった。ただ青木と山田勇気の2人のダンスを言葉で再現しようと思っても殆どできないことに気づく。覚えているのは2人で一体となった蟹のように動く身体が、次に分離すると2人とも黒いマスクをしたまま、見ていて溜息の漏れるような素早い見事や動きで互いの分身のように踊る。背景には時代の変化というか時間の流れを思わせる輪転機が回り続け、それがスクリーンに映し出される。

多くの観客が疑問に思ったのは、最初のシーンで二人で一体となったときの姿勢を、一人でとり、他の一人は輪転機の横にしゃがみこみその相手を見つけ続けるシーンである。このダンスには言葉がいっさいない。しかし変化は起こり、輪転機が回り続けるからでなく、確かに変化が起きていることが分かる。コンパのとき彼が説明しかけたことだが、おそらく自分自身を分身として見つめる姿なのかもしれない。

無意識なり、衝動に駆られて動くことができる。しかし振り付けは言葉にしなければその得た動きを再現できない。優れたダンスは観ているだけで浮遊感と快感を与える。しかしたとえそれは演劇のような意味ではないとしても、同時にその動きの意味を考えずにおれない。

直接それを表したとたんにその力は弱くなり、逆にそれが欠如していることでその力を発揮するとは、何て「言葉」は不思議なのだろう。ここにあげたダンサーたちのこれからも続く、「言葉」との格闘を楽しみにしている。(2012年3月16日。番場 寛)

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