「腐れ縁」よりもっと強く、美しい(イラン・デユラン=コーエン「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」)

「ぼくたちの愛は必然だが、ぼくたちは偶然の愛も経験する必要がある」。
サルトルがボーヴォワールに言ったと伝えられているこの言葉はドキュメンタリータッチの劇映画(俳優が実在の人物と同じようにふるまう)の中でも一貫したテーマとなっている。

この映画の正当な評価をしにくいのは、これを観ていて出てくるサルトルの言葉に一挙にノスタルジアを感じてしまうからだ。思い出すのは大学でフランス文学を選んだ時、時代の寵児と呼ばれていた大江健三郎が卒論でサルトルの『自由への道』をテーマに選んだことは知られていた。ぼくもまねして夏休みにそのポケット版の原書を買って挑戦した記憶がある。それはすぐ挫折したが、当時はどの図書館にも置いてあった翻訳の全集のとくに戯曲に夢中になり全部読んだ。

当時、人間の運命というのは神の目から見たら決まっているのではないか、といった考えに捉えられていたぼくにとって、「人間の本質というのは予め決められているのではなく、一瞬一瞬自分の意志により自らを未来に向けて投げ出していくことによって自らを決定していくのだ」という「実存は本質に先立つ」という実存主義の考え方は魅力的であった。卒論では『嘔吐』を『想像力の問題』という著作で書かれたイメージ論を手掛かりに分析したもので、映画でこの『嘔吐』を書き上げるシーンを観たときそのときの思い出が一緒に蘇った。

映画では、大学生のときに知り合った時からすでに男子の取り巻きのいたボーヴォワールに強引に迫り恋人になることに成功した直後から、彼女の他にも次々と多くの恋愛関係を続けていくサルトルは男の目から見てもうらやましいというより、勝手に映り、ボーヴォワールが可哀そうに思えてくる。余談だが、ボーヴォワールを演じているのは映画「シャネル&ストラヴィンスキー」でシャネルを演じているアナ・ムグラリスであり、彼女はこの二作品のように自分の意志を持ち、自分で運命を切り開いていく女性がとても似合っている。

父親に一方的に従属している母親や世間の女たちの生き方に憤りを感じていたボーヴォワールもサルトルの申し出に同意するのだが、次第にそれが彼女を追い詰め、サルトルの他の女性との関係に耐えられなくなっていくさまが映画ではよく描かれていく。むしろサルトルの彼女に対する気持ちがわからなくなってゆく。すでに別の女性と暮らしているくせ、ことあるごとにボーヴォワールに会い、自分の著作の感想を求めるだけでなく、彼女の執筆を促し、励ます。

彼女が、現代のフェミニスムに大きな影響を与えた『第二の性』を出版する場面や、サルトルの恋人との三角関係の苦しみから生まれた『招かれた女』を書き上げる場面などは感動的だが、最初自由恋愛を繰り返しているくせに別れたボーヴォワールに、自分に会うように説得するとき「いいか、『サルトルとボーヴォワール』という名で一つの存在なんだ」と言う。最初あまりにも勝手に聞こえた言葉が映画の進行とともに説得をましてゆくのは、ボーヴォワールがサルトルと別れた心の空洞を埋めるように女子学生と恋愛をしたり、熱烈に彼女のことを愛し、一緒に暮らし、結婚を申し出る男性まで現れたりしても、彼女もサルトルとの交流を絶やさなかった事実である。

現代のフランスで法的に認められている「パクス」(連帯民事契約)は互いの恋愛と自由意志に基づく契約同居の形態であるが、法的に「結婚」と殆ど等しい権利を認められたこの「パクス」が広く認められている現代でも、このサルトルとボーヴォワールの関係が感動的なのは、二人は紛れもなく男女でありながら、「恋愛」でもない別の決定的に強い絆で結ばれているからだ。二人を見ていると、ちょうど、「セルジュ・ゲーンスブールとジェーン・バーキン」の関係のように、日本語の「腐れ縁」という言葉が浮かぶかもしれないが、この二人の関係はもっと力強く、もっと決定的で、同じくらい「孤独」な関係と言えるかもしれない。ともあれ、久しぶりにサルトルとボーヴォワールが日本でも注目されて嬉しい。(2012年3月31日。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中