ピーター・ブルックの「魔笛」よりステキ!(松井周作・演出、サンプル「自慢の息子」)

8日に「びわこホール」でピーター・ブルックの演出したオペラ「魔笛」を観た。いままで演劇は数えきれないくらい観ているのだが、オペラはフランスやハンガリー、オーストリアで観たものを入れても10本に満たないだろう。曲や歌は素晴らしくてもあの動きの少ない舞台はちょうど何も準備をしないで能を観るときの感じに似ている。
 それでも観ようと思ったのは、あのピーター・ブルックが演出しているからだ。オペラであまりにも代表的な作品であるからこそ、それをあえていままで斬新な演出をしてきた彼がどのように演出するのか観たいと思った。

普通のオペラではおよそ3時間かかる「魔笛」をその半分の90分にしたと聞いていたので、どのように簡略化するのかという好奇心がわいた(Utubeで一部が見られます)。まず驚いたのは舞台装置であった。細い竹がいくつかの島のように群れてあちこちに立っている。少ないが中には太い竹も植えられている。部屋の隅には一台のピアノが置いてあり、それだけですべての音楽を担当する。人物の服装も女性と男性と、かろうじて身分の違いを見分けられる程度に簡素化されている。

見事なのは舞台に立てられたその細い竹が人物の身を守ったり、反対に閉じ込めたりする建物の壁に見えるよう演出されていることだ。夜の女王から、ザラストロにさらわれた娘、パミーナを救い出してほしい。それが成功したらお前に娘をやろうと娘の肖像画を見せられて言われた青年タミーノは、ひとめで恋に落ち、娘を探しに旅に出る。

一緒に行くのは陽気なパパゲーノであり、二人にはさまざまな試練が与えられるが、「魔笛」と魔法の鈴のおかげで二人とも恋人を得ることに成功する。そうした本筋だけを守りながらも、これ以上は簡素にできないと思われるほど大胆に細部を切り捨てた演出は、歌はドイツ語のまま朗誦されるのに、台詞をフランス語で発せられるのだが不自然ではなかった。

もっと前衛的なものを予想していたぼくには少し物足りないかなと思っていたのだが、驚いたのは終わったときの熱烈な拍手である。あちこちでスタンディング・オベーションが見られた。会場で偶然、前にダンスの振付をしてもらったYさんと、一緒に踊ったこともあるNさんに会ってびわこ湖畔まで行き、感想を話し合った。

Yさんは失望というか、軽い怒りのような感想を抱いたようだった。彼女に言わせれば、彼女がダンスを通じた創作活動のきっかけになったのがピーター・ブルックの「しあわせな日々」(サミュエル・ベケット作)を観たことなのに、それと比べてあまりにも感動がない。それ以上に納得できないのはあの程度の作品にあれほどの拍手をしてしまうのは、それを造った人をだめにしてしまうとまで言い切った。僕自身の、それでもピーター・ブルックはすごいと思う気持ちは変わらなかった。

ところが、11日にアトリエ劇研で、サンプルの「自慢の息子」を再び観たとき、これは文句なしにすごいと思い、どうしてあのオペラがびわこホールの中ホールを満席にするのに、こんなにすごい劇がわずか50人ほどの席しか埋まらないのかと思ってしまった。

実はこの劇は2年ほど前に今はなき難波の「精華小劇場」で観た作品で、こんどこれを観るのは2度目だった。最初に観たときの驚きと分析はこのブログで書いた(「禁じられた享楽としての「去勢」」、2010年9月28日公開)が、興味ある人は読んでいただけたらと思う。

最初に観たときはまず劇の展開が予想できないのが見事だと思ったのだが、今回は筋も台詞も分かっていてもどの程度楽しめるかと思っていたが、全体の印象は少しも変わらなかった。

年老いた母親のもとへ一人息子から王国を造ったので遊びにくるようにとハガキが届く、そこに行こうとする彼女と、苦情受付の電話係としての仕事に疲れた女が、互いに禁断の愛を抱いている兄と駆け落ちをしようとその国を訪れる、3人を導くのは若い男のガイドである。その5人とは別に、「陽」という名前のひとり息子がいるというパンクロッカーの外見をして洗濯物を干す作業を繰り返す若い女である。

2年前に書いたことの一部を確認だけしておく、タイトルになっている「自慢の息子」をぼくはラカンの「ファルス」だと断定した。女の子は最初父親のファルスを欲し、それがやがてみずからをファルスとしてパートナーの男性に与えることで今度は自分の子をファルスとして持ちたいと願うというのが極端に図式した説明である。

ファルスとはシニフィアン(記号の表現的側面)であり、ペニスではないと何度もラカンは繰り返しているにも関わらずファルスはその性質もどうしても帯びているように思われる。そしてラカンのファルスとは何よりも「欲望のシニフィアン」であり、「欲望」とは「欠如」を表すものである。

劇で隣の女がその洗濯物を干しているのに、一度も実体として現れない息子は「名前が『陽』(ペニスを連想させもする)なのに『陰』なの」と母親自ら言うように、どうも実在はしないらしいと観客にも分かる。これこそラカンのシニフィアンなのだと思い、ひるがえって実在している劇の主人公の「正」という名の息子と母親との関係を見直すとかれらも実在していても同じ欲望のシニフィアンの関係によって動いていることが分かる。

そこにあるのは「禁じられた享楽」としての「去勢」であり、同じくその関係が増幅され、目に見える形として演じられるのが、「兄」と「妹」との逃避行中の出来事である。

互いに「愛してる」と言いながらも、「体を触れないで愛撫する」(?)演技は見事で感動的で演劇史上に残るのではないだろうか?また前回書いたが白い布で覆われた影絵として映し出される二人は、今度は実際に肉体的にも交わってしまうらしいのだが、そのときの台詞が見事だ。布の内側からみると自分たちの姿が重なり交わっているように見える。それを見て兄が言う。「俺たちが幻であっちが本当の俺たちの姿だよ、きっと」それを聞いて自分に触ろうとする妹に触るなと言うと、妹は「でも、私たち、幻でしょう?だから大丈夫…」と抱きつく。

この劇は小さなヘリコプターや息子「正」の幼児性や権力志向を表すための無数のぬいぐるみを初めとする無数の小道具がとてもうまく使われているのだが、その最大のものは白い巨大な布である。包むことにより、瞬時に人物を消すことも、包むこともできるし、そこに映像を映したり、逆に内側から影絵として写し出したりすることもできる。ちょうどピーター・ブルックの「魔笛」の「竹」のように変幻自在の装置である。

「去勢」だけでなくこの劇には息子が「王様は裸か?」と自問するように、「性」や「欲望」だけでなく、「権力」への問いもテーマになっていることが分かるが、再度観ても気になるのは「ファルスとしての息子」である。そう思ってピーター・ブルックの「魔笛」のことを思い起こすとそこにおいても「欲望のシニフィアン」としてのファルスは機能していたことに気づく。無理にファルスなどとこじつけなくてもよいかもしれないが、突如として現れたり、見えなくなったりし、主人公を「未来の妃」へと導く例の「魔笛」そのものである。その魔笛が竹で作られており、唯一の舞台装置として何本もの竹が植えられていたのは偶然ではないと思う。

おそらく、物語の構造分析的にはV.プロップがロシアの民話を分析して導き出したようにいくつかの要素に分解できる記号でこれらの劇も成り立っているのであろう。「ある男が使命を帯びてひとりの女を探し求める」という構造は、観客はどこかで何回も観たことがあるような気がするだろう。そしてそれを導くのがファルスであっても不思議ではない。

ただその構造とリアルさにおいてサンプルの「自慢の息子」の方が優れていると思う。ぜひピーター・ブルックにも観てもらいたものだ。(2012年4月13日。番場 寛)

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