・・・の春-アラン・レネ「風にそよぐ草」-

 どうしたことだろ?「読書の秋」「食欲の秋」「芸術の秋」・・・という言葉があるが、それがそっくり「・・・の春」となってしまったかのようなのだ。まず、食べても食べても、ふと気づくとお腹がすいている。本屋に行けば次々と買いたい本が見つかり、ふと気づくと数万円も買っている。前はデパートに行っても買いたい服は無かったのに、スラックスと合わせて買っていた。雑誌で目にとまる変なものが欲しくなり、あちこち探し求めることもある。ソファを買ったうえ、研究室に滞在する時間がもっと楽しくなるように雑誌で一目惚れした椅子を求めて2時間半もかけて大阪の郊外まで行くなんて、少し狂っていると自分でも思う。

劇のワークショップに参加し、その流れで朗読の会に観客として参加したり、朗読そのものワークショップに参加したりして分かったのだが、現在この京都でも朗読そのものに熱中している人が多くいることに驚いた。黒子沙菜恵さんのダンスのワークショップは、それとは全く逆に言葉を使わず、二人向き合ったまま踊り、身体で対話するというものだった。特にそこに参加していた女子学生や黒子さん自身とペアを組んで踊った数分間は忘れられない体験だろう。

ラカンの読書会ではおよそ5年間あまり続いた『セミネール第16巻、大文字の他者から小文字の他者へ』を終えることができた。読み終えて何が理解できたのかと振り返ると心もとなくもなるのだが、とにかく参加者全員で訳し終えたということで感無量であった。

そんな「欲望の春」とでも言える最中、数本観た映画の中にアラン・レネ監督の「風にそよぐ草」がある。アラン・レネと言えば、「去年マリエンドバードで」のように難解な映画や「24時間の情事(原作『私の恋人、ヒロシマ』)のように原爆と戦争における喪失体験という重いテーマを扱った映画で知られていたが、老年になってからは、授業でも使った「恋するシャンソン」のようなコメディで評判になった監督である。

今回観た(京都シネマにて)作品は原題がLes Hebes Folles(狂った草)というもので、映画では何度か草が青々と生えている光景が映し出される。ある若いフランス人に聞いたところでは、これはフランス語では普通にある表現だということで、真っ直ぐ垂直にそろって生えているのではなく、あちこちの方向に生えている状態を指すのだという説明であった。

ひったくりにあってバッグを盗まれた老女性の捨てられていた財布を拾ったひとりの老男性が、そこに入っていた身分証明書の写真に惹かれてその女性への関心が増していく。とうとう自ら連絡を取るが、次第にそれはエスカレートしていき、ストーカーのように受け止められ拒絶されるが、男はあきらめることができない。

こういう粗筋を予告編で観たとき、こんなよくある「老いらくの恋」の映画はあまり観たいとは思わなかったが90歳になるアラン・レネの新作だということで観た。

ストーリーの展開とは無関係に何度か雑草のように生い茂った草が映し出されるのだが、特に印象的なのは、ひび割れたコンクリートの隙間からでも生えている草の光景である。どんなにかさかさになっているかに見える人の心の奥底から沸き上がり、押さえようとしても押さえられない恋心の象徴なのだろう。

二人の関係は、最初戸惑い、拒絶していた女が次第に心を動かされ、受け入れるようになるという展開は予想通りなのだが、まるで、そうは問屋が下ろすものか、といわんばかりの展開を見せるのがアラン・レネである。最後に二人が和解し、女の趣味である飛行機に乗せてもらおうとその場所までいく。男がトイレに行ったときファスナーを閉めようとして壊してしまい閉まらなくなって出てきたところで女と出会い駆け寄り二人は抱き合う。

驚いたのはそのとき字幕にはFINと出て音楽も盛り上がるのであるが、実はそこで映画は終わらないのである。普通の恋愛映画を茶化して、ほらこれが皆さんのお望みの結末でしょうと言うかのように見せておき、さらに続くのである。

女に飛行機に乗せてもらったとき、女は同じく飛行機の好きな男に試しに、操縦桿を握らせてくれる。ところが男はさきほどファスナーを壊してしまったことで開いてしまうズボンの股間が気になって操縦しているうちに飛行機は落下してしまうという驚くべき結末である。

そのまま終えておれば「老いらくの恋」という切ないメロドラマで余韻に浸ることができたのにこれはどうしたことだろう。しばらく考えてはっとした。あの、ファスナーが壊れてしまって開いたままになってしまった男の股間というのは、ひょっとして男の自分では押さえきれない恋心、欲望の隠喩なのではないだろうか? それによって映画の中では二人は落下し死んでしまうのである。振り返って映画の冒頭を考えて見れば、女が自分のお気に入りの一足を求めて次つぎと際限もなく靴を試して買うシーンもあれも欲望の現れではないだろうか?

この映画の中でもっともすばらしいと思った台詞は、男が一人で映画館から出てくるとき語り手の声が流れる。「映画の後では、何にも驚かない、あらゆることが起こりうる。すべてがごく自然に起きるのだ」と。

いったい、映画の真実とは何だろうと改めて思う。どんなにばかげた出来事だとしてもそれが映画の中で描かれたとんにある真実となってしまう。

また、授業で使っている「恋するシャンソン」に出演していた男女(アンドレ・デュソリエとアビーヌ・アゼマ)が演じているのだが、二人が確実に重ねた12年という歳月がスクリーンからもわかるがそれは悲しいことではなく、よりいっそう「狂った草」の生命力を感じさせてくれる。

ところで、春は「恋の春」でもある。みなさんの心にもLes Herbes follesは生えていますか?
(2012年4月20日。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中