「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」だなんて!(押井守『コミュニケーションは要らない』)

その前後とゴールデンウイーク期間は普段では経験することのできない多くの人たちと話した。改めて振り返ると、大学と自分の部屋との往復以外は、映画館、劇場、図書館、スーパー、たまにデパートと多くの場所に行っているようでいて、他人と会話らしい会話をする機会は殆どなかったことに気づく。

それが今回は、ダンスのワークショップ会場とその後の打ち上げで普段だったら絶対に出会わないし、会っても言葉を交わす機会のなかった筈の多くの若者たち(高校生や院生やダンサーやデザイナー、評論家)たちと話した。ぼくの外見は今まで通りのしょぼくれたオッサンにしか見えないかもしれないが、内面は確実に20歳くらい、いや30歳くらいかもしれないほど若返ったような気がする。確実に心に残った会話の一つ一つをここに書けないのを残念に思う。

「半径一メートル以内の好奇心から自由になろう」を標語にしてこの大学の授業に臨んでいる。「半径一メートル以内の好奇心」とは、勿論比喩的な意味で使ったもので、自分の慣れ親しんだ世界、すでに親しい人とだけ交わり、そこに安住してその外の世界への好奇心を失っているように見える学生を鼓舞するために繰り返しているのだが、最近ではそれが比喩ではなく文字通り一メートルの距離の身近なことにしか興味を持てない若者を目にする機会が多いと思うだけでなく、ふと気づくと自分自身もその「半径一メートル以内の好奇心」に閉じこもりがちであることを発見して驚く。

メールやインターネットでどんなに空間的に離れていても、自分と異なった世界への関心を失っている行為だとしたらそれは「半径一メートル以内」なのだ。そんななか広告で目にした『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)はそのタイトルとともに宣伝文句が強烈である。

「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」と書かれている。その「つぶやき」とはツイッターやメールのそれをさす。押井守の作品は「イノセンス」というアニメと、作品名は忘れたが実写とアニメを組み合わせた戦争映画を見たきりだったが、これを読むと彼がいかに鋭い時代認識と批評精神に基づいて作品を創っているのかが分かるのだが、自分にとっては「文章を書く」ということについて更に考えさせられた著書である。

この著書を要約するのが難しいのは、書かれていることが難しいのではなく逆にあまりにも明快でコメントをつけること自体が困難だからだ。

挑発的なタイトルにもかかわらず、読むと押井は「コミュニケーションは要らない」と主張しているのではないことが分かる。現状で普通「コミュニケーションが必要だ」と言われているようなコミュニケーションだったら必要ないと主張しているのだと分かる。彼によればネットを使ったSNSによる言葉の交換は擬似コミュニケーションに過ぎないのである。では、彼の唱える本当のコミュニケーションとはどういうものなのかというと、異なった言語空間としての共同体が交流することであり、そこには摩擦を伴うのであり、そうしたコミュニケーションの極端な場合が国家間の戦争だということになる。

「一人の人間の中にある違うレベルの言語空間を、それぞれどう折り合いをつけて生きているのか?・・・他人とつきあうということを、愛だの恋だの友情だのという漠然とした言葉を並べて語ったつもりになっているだけでは文化としての価値を何も語っていないに等しい。」「みんなと繋がることを喚起して売ったツールが、結局ディスコミュニケーションを可能にしているという現象のほうが僕にとっては興味深いし、説得力がある。」という意見には全く同意する。

この本にはもう一つ具体例として非常に重大なテーマに向かい自分の意見を述べている章がある。それは第2章の「僕は原発推進派である」という章である。これを読んでぼくは自分が日本の原発について、あまりに初歩的な知識さえ得ようとしてこなかったことを反省した。彼は「電力が足りない」といったレベルのことを話しているのではない。それでもぼく自身は直感的にかれの意見に反対したいと思う。しかしその反対の論理を組み立てられないでいる。

次のようにオヤジと呼ばれる人たちにとっても、若者にとっても挑発的な言葉で満ちている。

「たとえば自分から行動方針を出さない。できるだけ気を遣って、みんなの意見に従うようにする。だから、いつまでも一箇所でたむろしている。そして、仲間と一緒にいるために携帯であっちこっちにメールを出しまくる。これもまた、自分が無害であることを周囲に知らせるための根回しだ。」

震災後のボランティア活動から帰られて教授会で報告された志藤先生の「現地を見てとてもガンバロウなどとは言えないと思いました」という言葉を思い出す。「絆」とか「ガンバロウ日本」という言葉を目にするたびに自分がなぜ違和感を感じていたか、その理由がこの本を読むとよく分かる。「一瞬一瞬の感情に流され、目先のレベルでしか物事が判断されていないからこういうことが当たり前のように許容されている。情緒に訴えることで論理的な思考を麻痺させ、正しいとか正しくないとか言い合ってコミュニケーションをはかったつもりになり、その判断の積み重ねで、今の日本になってしまった。」という指摘は説得力がある。

ただこの本を読んでいてどうしても、反論しなければと思う部分もあるのだが(たとえば珍しく誤植で「国歌」を「国家」としている箇所があるが誤植ではないと思えなくもない、)その言葉が今自分にはないことを悔しく思う。

最後にこの本でクリエーターとしての押井の言葉として一番感銘を受けた言葉を引用しておこう。

「現実こそがもっとも重要な場であり、虚構は現実の二の次なんだという考えがある。だが、我々にとっては確実に虚構のほうが値打ちがある。・・・ヴィスコンティのように生活に不自由したことのないまま映画を撮っているわけではない。片方で豆腐の値段を考えながら、片方で妄想する。これが近代における表現だ。」

今回のぼくのこの文章が「つぶやき」でないことを祈っている。(2012年5月11日。番場 寛)

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