アスガー・ファルディ監督『別離』(京都シネマにて)

このブログでも予告されていた「シュテファン・ビダーマン氏」の講演会「EUとは何か―個人的な体験から」を聴いた。度重なる国家間の戦争を避けるためにEUというものが生み出されたこと、それにより国家間の交流が経済的、文化的にもきわめて容易になり、若者の間でも積極的に交流が行われるようになってきていること、それと同時に今回のギリシアの経済危機に見るように加盟国のうちのある国の危機がすべての国に波及し、現に 氏のドイツに納めている税金の一部がギリシア救済にも使われていることなどの具体例のもとに説明された素晴らしい講演会であった。政治だけでなく文学にも関心を寄せ、音楽ではギター20本、CD5000枚(ひょっとして本学の・・・・氏も負けるかもしれない)所有しているなど、何て精神的にも豊かな方だろうと感心してしまった。学生の質問にも丁寧に答えられておられた。個人的にはEUでは今でも英語とともにフランス語も公用語とされている事実をお聞きして嬉しく思った。
招聘されたデッケ・コルニル先生、司会を務められた廣川智貴先生、ありがとうございました。

ところで、すでに高い評価を与えられているイラン映画、『別離』をようやく観たのだが、改めてイスラム文化圏であるがゆえの特殊な倫理とそれに基づく制度の特異性と、それが目につくが故に逆に人間であることからくる、人間であるが故の弱さ、愛、家族としての結びつきなど文化を越えて普遍的な問題が、あたかもレントゲンをあてた人体の骨格のように明確に浮かび上がってそれに人はみな感動したのだろう。

以下は映画を観てからお読みください。なぜなら映画の後半で争いの中心となる出来事(事件)をあなた自身の眼で確認した上で、登場人物たちのめいめいの正しさを判断してもらいたいからです。

映画で判事が尋問するとき争点となるのは、自分の留守のときにアルツハイマーの父親の介護を依頼していた女性が、父親をベッドに縛り付け、外出しており、かれが帰宅したときには父親はベッドからずり落ち、意識を失っており、しかも家の金が無くなっており、それに腹を立てた彼が、その介護を依頼した女性が盗んだと思い込み、怒って彼女を家から力尽くで追い出したとき、それが原因で女性が倒れ流産したと判断されたという事実に対し、その介護を依頼した夫が、彼女が妊娠したいたことを知った上で乱暴な動作をしたのかどうか、それに本当に彼が押したことが彼女の流産の原因だったのかどうかである。

事件と言っても他の映画で起こるような殺人や、爆発や、銃撃戦が起こる訳ではないのに、展開はそれ以上にスリリングであり、観客に息をつかせないかのように心に問いかける。父親を自分の手で介護することに固執する夫は娘の教育のために国外に移住しようとする妻の離婚の申し出に応じ、妻が家を出たことから悲劇は始まる。

家族を自分の手で介護したい、あるいはしなければならないという考えは民族、文化を越えて普遍的な悩みである。映画の中で粗相してしまった父親の体を風呂場であらってやっているときに、父親の背に顔をあてて夫が声を押し殺して泣くシーンには経験者のだれでもが涙するであろう。

しかしこの映画がイスラム教の文化圏の映画であることがその普遍性の現れを特殊なものにしている。介護を依頼された女性は敬虔なイスラム教徒であり、粗相した老人の下着を替えるときでも、他人の男の体に触れて良いかどうかを聖職者に電話で相談しなければならないくらい熱心に戒律を守っている女性である。しかし彼女も、介護を依頼した男も、娘の教師もみな、自らや知人を守るために「嘘」をつく。その自分のついた「嘘」に程度の違いこそあれみな苦しむ。とくに離婚する両親の間で板挟みになっている娘の苦しみが痛切である。

映画はその娘が最終的に母親と父親のどちらについていくかと判事に尋ねられ、涙を流しながら「もう心の中では決まっている」と答えるところで終わっている。観客にその結末は任せられていると監督は言っているが、これを観た皆さんはどちらについていくと思うだろうか? 介護を依頼している女性が妊娠していることを知っていたのに、妊娠19週間目後の流産を引き起こしたことは殺人罪と見なされるその国の法律を恐れて「知っていなかった」と嘘をついた父親を軽蔑し、母親について行くだろうか? ぼくはそうは思わない。母親と父親を同じくらい愛していても、すぐに母親について行かなかった彼女のことだ。自分の生活さえ送れるかというぎりぎりのところで自分の父親であるアルツハイマーの老人の介護を続ける父親を心優しい彼女は決して見捨てないと思う。

アルツハイマーの老人の演技が見事というか、演出、写し方が見事だ。一言も言わないままじっと前を見つめたまま、自分の息子とその妻の言い争いを聞いている横顔を見たとき、それが何か崇高なものに見えたことに驚いた。その姿は人間が人間であり続ける限り必ず直面する問題、人間の直面する困難そのもの、あえて言ってしまえば「十字架に架けられたイエス」の姿にも想えてきたのだ。

ところであの家で消えてしまったお金はいったいだれが盗んでしまったのだろう? 映画を観た人、考えを教えてください。(2012年5月23日。番場 寛)

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