8月4日のこと(オープンキャンパス模擬授業、伊月肇監督「マイナス・カケル・マイナス」)

 昨日は久しぶりに感慨深い一日であった。個人的な一日のことを書いてもしょうがないという思いは変わらないが、一日の最後に観た映画「マイナス・カケル・マイナス」を観て、そんなつまらない一日で読んでもらえる文章を書けるかもしれないと思った。
 
 さて聴衆がいるかどうか心配した模擬授業だったが、二十数名の参加者がいて本当に嬉しく思った。ひとりでも、絶対めげずテンションを上げて臨もうと思っていただけに、顔ぶれをみたとき気持ちがさらに高ぶってしまった。

準備には数日前からかなり時間をかけた。フランスに関する高校生にも分かる内容で、しかも自分ならではの視点で、大学の授業らしい、ものの見方を教えられないかと模索した。

「大切なものは目には見えない」というサンテグ・ジュペリの書いた童話『星の王子さま』の言葉は、普通は外見や物質として現れる現象にとらわれることなく、物事の本質を見極めなくてはいけないという風に解釈されて引用される機会が多いようだ。

しかし「もし本当に『大切なものが目に見えない』のだとしたらわれわれはどうやってその大切なものを見つけることができるのだろうか?」といったテーマを、フランス文化における『ペロー童話』のなかの「巻き毛のリケ」という童話をとりあげ、最後に醜かったリケがリケの力で利口になった王女の力で美しくなり、二人が結婚した結末の考察を例にとって説明した。

冷静に結果だけ考えれば説明はうまく伝わらなかったかもしれない。なにしろ自分でも本当に考え込んでしまい。ふと浮かんだラカンの「ボロメオの結び目」を模擬授業で披露してしまったからだ。目に見えない人間の心のありかたを、ラカンという人は目に見える3つの輪(想像界、象徴界、現実界)で表し、それらが切り離せない関係で緊密に結びついていることを示した後で、童話における目に見えないものと、フランス料理における目に見えないものをこの「ボロメオの結び目」をモデルとして説明しようと試みたのだが、かなり強引な論理で出席してくださった高校生とそのお母さん方には説明が足りなく申しわけなかったと思う。

午後ブースに座っていたら模擬授業に出席しておられた高校生とそのお母さんが来られて模擬授業のお礼から言われて恐縮してしまった。入学後のイメージについてかなり長い間相談された。

スタッフの中にぼくのゼミから学生ボランティアとして参加してくれた学生がひとりいて彼女が会場入り口や構内で案内人としてかいがいしく働いている姿や、2年前に卒業した同じくゼミの学生だったYさんが、職員として自信にあふれた態度で高校生に接しているのを見て嬉しく思った。

模擬授業を終えた虚脱感からかそのまま家に帰る気にはなれず、映画を観た。監督も評判も全く知らなかったがタイトル「―×― マイナス・カケル・マイナス」に惹かれたからだ。マイナス・カケル・マイナスはプラスになるので、不幸の連鎖が幸福へと逆転する映画かな、くらいの予想で観たのだが、違っていた。

これは驚くべき映画だ。ぼくの知らない監督でこんなに才能のある人がいたなんて。ストリー展開事態は変わっていない。いかにも「マイナス」を絵に描いたような、借金の催促の電話におびえる、万年床の殺伐とした汚れた部屋に住む独身男、彼はタクシーの運転手で彼があるひとりの変な女性を乗せたことから展開する。

のちにその女性は離婚したのちひとり息子を亡くしたことで心を病んでいることが分かる。タクシーの運転手も実は離婚していてひとり息子と離れて暮らしていることが分かる。これで「マイナス・カケル・マイナス」なのかと思ったら違った。

映画は全く違った父と娘の話に移る。父親が離婚し、引っ越しをするため娘も友人の少女と別れて転校することになる。少女は父親にも雄としての悲しさを発見するし、分かれて住む母親の雌としての性にも苛立ち、反抗する。言葉にできないし、つたえようという気もないその苦しみが正確にはどういうものであるかは理解できなくても、その主人公の少女の苦しみに寄り添い、何とか和らげようとする少女の友人とその主人公の二人の、「目には見えない」し言葉にもできない心の交流が、「目に見えない大切なもの」を目に見える映像として描くことに成功している。少女二人の演技がすごいのか、演出が優れているのか分からないほど二人の演技は見事であり、それを追うカメラワークもはっとさせるショット(例えば校庭で二人の少女が背中合わせにもたれ合っている周りをカメラが一周するシーンはどうやって撮ったのだろう?)の連続である。

まったく別の二つの映画をくっつけたオムニバス形式の作品かと思っていると最後に最初の話のタクシーの窓から二人の少女を運転手が見るシーンが映し出され、この映画は共時的に流れている時間を通時的に撮影した構成の映画なのだと初めて分かる。ここで二つの「マイナス」、つまり、欠如、喪失の感情が重ならないまま交叉する。

ふと思う。われわれは当たり前だが、自分を中心に例えば今日の自分は「マイナスだ」などと感じることがあるとしても、別の誰かも「マイナス」と感じており、その二つが重なることなく交叉する瞬間を生きているのかもしれない。そうした孤独をこの映画は巧みな映像技術と演出、驚くほどの役者の演技力で見事に浮かび上がらせている。10日まで一回のみ京都シネマで上映している。お見逃しなく。(2012年8月5日。番場 寛)

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