本の力 ― P.オースター『ブルックリン・フォリーズ』を読んだ夏―

 「本の力をあなどってはならない」これはP.オースターの小説の最後の一行である。「すでに人生が終わった」と思い込んでいる中年の男は小説の最後で生きる力を何とか取り戻し、奇抜な仕事のアイディアを思いつく。それは世間に何らかの知られた業績をあげた人物ではなく「ほとんどの人生は消滅する。一人の人間が死に、その人生の痕跡はすこしずつ消えていく」と説明される、やがて「忘れ去られる」人々を巡る伝記を出版する会社を作ることである。「愛する者」を「言葉のなかでよみがえらせ、原稿が印刷され物語が本の形で綴じられたら、彼らの手元には一生のよすがとなるものが残ることになる。彼らが死んでも残るもの、私たちみんなが死んでも残るものが」(引用はいずれも訳320頁―321頁)

ネイサンという主人公の中年男は多くのオースターの小説の主人公と同じく、アンチヒーローで、妻に去られ、娘にも見捨てられ、癌の宣告を受け、それでも生き長らえている男であり、それだけでも読んでいて気が滅入ってくる筈なのに、そのだめさ加減が次第に何か心地よいリズムのようなものとして感じられてくる。この主人公ネイサンはぼく自身とかなりの部分で重なっている特徴があるということを割り引いても、主人公だけではなく、彼を取り巻く人物も悪人を除いてはだめ男、だめ女のオンパレードでいずれも読んでいると引き込まれる魅力的な人物として描かれていてオースターの筆力に感嘆するばかりである。

親に見捨てられたような境遇なのに意志が強く利口で大人たちと知性で堂々と渡り合うルーシーという女の子は、村上春樹の『1Q84』に出てくる「ふかえり」と並ぶ魅力的なキャラクターであろう。ルーシーがカルト教団に入っている夫から彼女を救おうとする母親から彼らのもとに送られたという点も『1Q84』との類似点を思わせる。ルーシーが、自分が世話を受けたくない女のもとに送り届けられることを阻止しようとして大人たちが目を離した隙にコーラを燃料タンクに何本も注ぎ込みエンジンをだめにしたせいで何日も主人公たちは足止めをくうのだが、修理を終えて業者が届けた時には、実はブレーキが殆ど壊れかけていて少女の必死のいたずらによって全員が救われたことが明らかになる。

この一例によってもオースターの小説の特徴の一つが露わになる。『偶然の音楽』という題名の作品さえあることからも分かるように、彼の小説の特徴の一つが「偶然」という概念である。思えばあらゆる小説が「偶然」のできごとをつなげることで必然的なものと見せることでなりたっているが、実際の人生も本当は「不連続」なのにそれをわれわれが主観で繋いで必然的なものと感じているのかもしれない。

それほど似ているわけでもないのだが、オースターの小説を読むとつい村上春樹の作品と比較してしまう。村上の『海辺のカフカ』を読んだとき、もう彼はオースターを超えたのではないかと思ったが、オースターの『幻影の書』を読み終えたとき感動で叫びたくなり、夜中だというのに知人に長いメールを書いてしまった。今回のこの作品のなかでも読んでいて、ワーと叫びたいほど感動した箇所がある。

それは主人公のネイサンがある小説を書こうとしているが自分の才能と年齢のことを甥のトムに嘆いたときに、トムが「書くこと」についてのかけがいのなさを語りネイサンを励ます場面にトムから語られるエピソードである。

それはカフカの生涯最後の年の話しだ。ある日偶然に公園でわあわあ泣いている女の子にカフカがたずねると女の子は「お人形をなくしちゃったの」と答える。それを聞いたカフカが「人形の身に何があったかを巡る物語を捏造」し始め、女の子とやりとりしているうちに、女の子をなぐさめるつもりで「君のお人形は旅に出たんだよ」と言ったことで、カフカは人形からの手紙をその女の子に見せなくてはならなくなる。以下に訳文からほんの一部を紹介するが、訳文の158頁から163頁にあたる箇所である。

毎日一通の手紙を字の読めないそのひとりの女の子に読んで聞かせるためにカフカは三週間も毎日机に向かうのである。「美しい、説得力のある嘘を思いつければ、女の子の喪失を違う現実にすり替えることができるのだから。偽りの現実かもしれない、でも虚構の掟から見ればそれは真実であり信用できる何かなんです」。「この世に存在した最良の書き手の一人が、自分の時間を、じわじわ減ってますます貴重になっていく時間を犠牲にして、なくなった人形からの架空の手紙を書」いたおかげでやがて女の子は救われる。トムは「彼女には物語があるのです。物語のなかで生きる幸運、架空の世界でいきる幸運に恵まれた人にとって、この世界の苦しみは消滅します・・・」。

この小説では本当にオースターの、いろいろな人の人生を記述するストーリーテラーとしての巧みさが「書く」ことによる救済という主題を支えていることが改めて納得させられる。読んでいると、このネイサンが(つまりオースターが)このぼくの今年の夏を書くとしたらどうなるだろうと考えてしまう。

「2012年の夏、Bは田舎で幼い頃から親しんでいる村の人たちと久しぶりに会った。それは都会でのふわふわと宙に浮かんでいるかのような日常に比べれば、ひりひりと肌に突き刺さるようでもあり、ときにはその温かさにうっとりとするような体験でもあった。だがBのこの夏をたった一言で表すとしたなら「ポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』を読んだ夏」となるだろう」とこんな調子だろうか? やはりオースターにはかなわない。

まだ夏は続きます。あなたの夏の「物語」はどんなでしょうか?(2012年8月17日。番場 寛)

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