「王様は裸だ!」― 見えるものと見えないもの ―(地点『裸の王様』を観て)

授業中にぼくがときどき学生に問いかける次の問題をあなたも考えて欲しい。

「みなさん、じつは日本のある会社が人工衛星から撮った写真をもとに地球儀を作って売り出したのですけれど、殆ど売れ残ってしまったんだそうです。なぜだと思いますか? 値段も高くないし、なにしろ人工衛星から撮った写真で作ったので本物の地球そっくりなのですよ」

学生たちで正解を出す者はまれだ。あなたはおわかりだろう。そこには本物そっくりの地球があるが、国の名前も、色分けもされず、国境はない。つまり普通の地球儀としては何も役にたたないからだ。ずっと前に新聞でその地球儀のことを知り買ったのだが、それを見ていると以上の当たり前の事実をつくづくと思い知らせる。

舞台芸術の祭典KYOTO EXPERIMENTが今年も始まり、今はその真っ最中である。今年のキャッチコピーは「地図を捨てる、世界と出会う」である。26日は何だかわからないグループだが、わざわざアイスランドから呼ばれたのだからすごいパフォーマンスなのだろうくらいの期待で会場となっているクラブのMETROに何十年ぶりかで行った。会場についただけで場違いの所に来てしまったと思ったが、中にこれから書こうとしている「地点」の演出家の三浦基さんも来ていて、彼も少し当惑したように「なんか場違いの・・・」と言ったので少し安心した。

レイジーブラッドfeaturing Reykjavik!という男女のグループのThe Ticking Death Machineという作品で、ヘヴィーメタルとラップとロックの混合した激しいライヴだった。、すばらしい演奏だと言うことは認めるが、自分には乗れなくて若者のようには踊れなかった。もう何十年も前の東京で、生前のボブ・マーリィのコンサートで椅子に座っていることができず、踊ってしまった経験が体のどこかに今も残っているからだろう。

さて、地点の『はだかの王様』だが、「大人のための子ども劇、こどものための劇」とうたわれていたとおり、舞台装置も、やじろべえのようにリンゴをつるしたり、『ユビュ生』の挿絵のようでもあり、赤ちゃんの着るそれのようでもある服装だったり、コミカルな舞台装置や服装でこどもを惹きつけるようなものとなっていた。

アンデルセンの原作をもとにした小説家戌井昭人(彼の最近の芥川賞候補作『ひっ』は素晴らしい)の脚本のせいか、俳優の台詞回しは早口で畳みかけるようなものもあり、いわゆる「地点的発声」(発声をあえて日常言語とはずらして分節する方法、発声における「異化」の方法)とは変えてあった。

何度も落ちるリンゴを頭に載せ直す王様(被った白い布にのった赤いリンゴは日の丸を暗示しているのか?)は「権力」の危うさをこどもにも分かる形で見せているのだと思って笑って見ていたのだが、進行するにつれてあまりにもアクチュアルな問題に触れた進行になったのでみな驚いたと思う。まさに現在の日本において問題となっている領土問題もその劇のひとつのテーマとなっていたからだ。

その日はポストトークで劇に出て二人の俳優(窪田史恵、小林洋平)がプログラム・ディレクターの橋本祐介さんの司会で劇について説明するという設定で、そのおかげて自分の理解を補うことができた。

「劇は観客がそれを観てはじめて成立するのであり、言い換えれば演劇とは観客を作り出す装置のことである」という持論はいまだに変わらない。ポストトークの時にあらたに分かったのは、観客にたとえこどもがいない場合でもそこにこどもがあちこちに座っていることを観客に意識させるように、前に設置された座る席のあちこちには、脱がれた子供靴が置かれていたことだ。つまりそこにいない、見えない存在を意識させる設定がされていたのだ。

他の部分はあなたもご存じのように、王様のためにすばらしい衣服を織るように依頼された職人は実はいかさま師で、見えない布を織り、大金を巻き上げる。その布が見えない者は心のよくない者だということにされるので、身分や職を失いたくない大人たちはみなその服を褒め称える。

それをなんの利害も関わらずありのままに見たひとりの子どもだけが「王様は裸だ!」と叫ぶはずだった。ところが地点のこの劇では、とうのいかさま師たちが客席の後ろにまわり「王様は裸だ!」と叫ぶように観客に呼びかけるのだ。それは劇の演出だと思っていたのに、その日は多くの客がいかさま師の指図に従い「王様は裸だ!」と叫んだ。

ポストトークのときぼくが手を挙げて聞いたのは、あれは逆で観客にいかさま師は「王様は何て綺麗な服を着ているのだろう!」と言わせるべきだったのではないかという疑問である。

「言わせられている」この社会の構造を可視化したいのなら、そういう台詞を言わせることでテーマと整合性を持つし、「労働」という概念を考察させたいのなら、あの2度にわたって大臣からいかさま師に渡される袋に入ったお金だって、現代の資本主義社会の為替変動に見るように「見えるもの」のようでいて「見えないもの」なのだというところまで発展させることだってできた筈だと思う。

何かが「見える」と思っていても実は「見えない」というより、あのぼくの買った地球儀、いやそれ以上に本物のこの地球には国境線は引かれていない。「世界と出会う」ためには「地図を持たない」、つまり存在しないものをあくまで見ようとしないことが必要なのだろう。このブログで書いたが、坂口恭平が『独立国家の作り方』で主張しているように土地を所有すること自体を問うべきなのだ。

ところで、領土問題のことをある先生と話しているうちに、愚かにも「浄土はだれのものでもない」などという言葉が浮かんでしまった。

今日は杉原邦夫演出の「更地」(元・立誠小学校講堂にて)を観るつもりだ。あなたも観ませんか?(2012年9月29日。番場 寛)

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