「目をそむけないで、このわたしを観て!」と叫ぶ声が聞こえる。(映画「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」と「劇団 態変」公演「虎視眈眈」を観て)

 10月7日の夜、京都シネマでフレデリック・ワイズマン監督『クレイジーホース』(を観た。これはパリの有名なキャバレーのドキュメンタリーで、ヌードショーで有名なキャバレーが、「世界一シックなショー」を見せたいという野望のもとにいかに神経をすり減らすような努力を続けているかを見せる映画だった。

顔の表情は勿論のこと何よりも美しいボディラインを持ったダンサーの選考場面から始まり、メイク、コスチューム、証明、演出などの工夫だけでなく、演出家の芸術的野心と劇場の株主を配慮しての経営のマネージメントの要求のせめぎ合いがスリリングな緊張感に満ちていた。

劇場スタッフのある女性が言った「綺麗なモデルよりコンプレックスのあるモデル(ダンサー)の方が自分を綺麗に見せようと努力するから、やがては素晴らしいモデルになる」普通にも思える言葉がこの映画を観ているとその通りだと思えてくる。

もともと美しいボディラインを持った女性たちを、いかにさらに美しく官能的にみせようと努力しているのをみせるドキュメンタリーで、映画の最後は男のあるスタッフの影絵で、最初動物の横顔だったのが鳩に変わり、それが飛び立っていくシーンで終わっていた。つまりショーというものは、「影絵」に象徴されるようにいかに見る人の「幻影」を喚起し陶酔させるかにかかっているということを言いたかったのだと思う。

実はこの日はその前に大阪の「ウイングフィールド」で観た「劇団 態変」の「虎視眈耽」にあまりに感じ入ってしまい。そのまま家に帰れないほどで感情のほてりをさますかのように映画館に入ったのだった。

「態変」は身体に障害を持つ人たちだけによって構成された金満里(漢字は正確ではありません)さんによって演出されている劇団である。これの劇団の公園を最初に観たのは、あちこちに新しい建物が建っていることで逆に阪神淡路大震災の傷跡が感じられた伊丹のAIホールで、生前の舞踏家大野一雄がこの劇団と踊るというので観に行ったのだった。

レオタードを着て舞台上に横たわったり、這ったり、転がったりする団員と当時最高の舞踏家と言われた大野の組み合わせは観るまで想像できなかったのだが、観ると驚くほど調和していた。そのとき思ったのはだれでも老いて身体能力が衰えると障害を持った人と非常に似てくる動きになるということだった。

そのときそれ以上に衝撃を受けたのは、日常生活においてわれわれは(少なくともぼくは)、自分が健常であることになんらかのすまない気持ちに襲われ、障害を持った人から目をそらしがちである。しかしこの劇団はショーとして観客の前に身をさらし、演技、動きを見てもらう対象として提示している。われわれが普通に意識せず日常に行っている、ただ歩くことは勿論のこと、這うこと、転がること、手脚を揺り動かすことが、当たり前ではなく、極限の努力をしないとできない人たちが目の前で、観られる対象として自分を提示していることは、分かっていても驚きである。

しかし、今回は2度目である。冷静にパフォーマンス作品としての価値、表現としての価値を見極めようと気合いを入れて観に行った。不自由な手脚を動かしながらめいめいの持つ能力を最大限に発揮して舞台を左右に行き来する。歩ける者は歩くが、そうでない者は這うかそれ以外の方法しかない。

その中で言葉を失ったメンバーがいた。彼女の体は上半身しかなく(外見上だけかもしれない)左腕は肘くらいまでの長さしかなく、右腕はさらに短く、赤ちゃんの手の先のような大きさのものが直についているように見える。その彼女がうつぶせになり、床に体をこすりつけ、どうやってそれが可能なのか分からないやり方で進んでいるのだ。顎と左腕と胸を床に接してそれらを使って動いているように見えた。

これは観客に見てもらおうとして見せている姿であり、演技なのだ。哀れみとか同情なんて失礼なことなのだと自分に言い聞かせつづけなくては見つめられない姿だと最初思ったが、やがてそれが感動に変化したことに自分で驚いた。

彼女がそこにいること、そこに生きて存在していることだけで奇跡に思えてくる。バスケットボールを少し大きくしたくらいの体しかない彼女が必死で床を這っている姿を見たときは感嘆にも似た感情が沸き起こった。

ダンスも演劇も時間と空間を分節し、差異化することで成り立っている。「態変」の演技は、健常者が日常、普通に意識せずに行っていることが普通でないことに思えてくる。普通にできることを「異化」し、「差異化」しているのだと思う。

このブログで前に高嶺格のドキュメンタリー作品「木村さん」について書いたことがある(「障害を持つ人の性から目をそらさせない、高嶺格のビデオ作品「木村さん」を支持する」)が、そこに出ていた木村さんもこの劇団のメンバーであって最近亡くなられたことも聞いていた。しかもかれはこの大学の近くに住んでいたという身近な存在でもあった。

今回の公演では観客の殆どが中高年の人で埋められており、ぼくにとっては違和感のないはずなのに普段の公演の観客のように若い人がまばらなことに逆に驚いた。そのわけは分かる気がする。年をとるということはある意味で障害を持つ体に変化していくことでもあるのだから、舞台上の人たちに共感を覚え、励まされるからなのだろうか?

この劇団の公演は生きることの必死さをまじりけなしに観客の目にさらし突きつけてくる。舞台挨拶のときに人に抱えられて他のメンバーと登場した例の上半身だけの女性は向井望さんという名前だと告げられた。望と名づけた彼女の両親の気持ちを想う。彼女自身はどのような気持ちで公演に臨んでいるのか分からないが、高嶺が例の映画で「もっと木村さんには有名になって欲しい」とつぶやいていたようにぼくも向井望さんには、舞台演技者として更に有名になってほしいと願ってあえてここに名前を書かせてもらった。

その短い腕と他の全身を使い自分で必死に這ったり、転がったりしながら移動していく彼女の叫びが聞こえるかのようだった。「目をそむけないで、このわたしを観なさい」と。(2012年10月10日。番場 寛)

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