苦しいのは、そして楽しいのも君だけじゃない。-卒論に取り組んでいる4年生の皆さんへ-

苦しい。こんな気持ちは2年ぶりだ。体も健康だし、幸い仕事もあるし、食べるものにも住むところにも困っているわけでもないのに。苦しい。

 締め切りをとうに過ぎている論文がなかなか進まないだけで、本当に恥ずかしい。ダンスも演劇も映画も我慢して、仕事以外は机に向かっている。頭が回らなくなって京都駅に散歩に行った。八条口の通路はスーツケースを引きずる人やレストランや店の入り口で迷っている人であふれているが、どの人もくつろいで、笑顔を浮かべている。そうなのだろう。京都、特にこの時間の八条口は、慌ただしく、辛い日常から解放された人たちのための憩いの場所で、当然終わっているはずのことを終えることができなくて悶々としている者の来るところではないのだろう。

「いいかい。どうにも進めなくなったように感じる時がくるかもしれないが、それは研究が進んでいる証拠なんだ。その時初めて別の角度から考えるために、まったく違った「キーワード」を探し、その資料にあたるんだ。そして行き詰まったらいつも最初にそのテーマを研究しようと思ったきっかけは何だったのかと思い出すんだ。それがヒントになる場合があるから・・・」

4年生のゼミを担当しているので、卒論のための発表をしてもらいアドヴァイスをする授業をしているのだが、今は学生に言っている一言一言が自分自身に突き刺さる。何のことはない。行き詰まっているのはこのぼくなのだ。奇しくも学生の中に、「チョコレート」と「女性」と「贈与」というテーマで研究を進めている学生がいる。彼女はその具体例として「バレンタインデーのチョコレート」を挙げて発表した。そのときマルセル・モースの「贈与論」を読むようにアドヴァイスしたが、ぼくこそそのテーマで今苦しんでいるのだ。

J.ラカンの「愛とは(自分の)持っていないものを与えることである」という有名な言表について論じようと取り組んでおり、ラカン自身も触れているが、「ポトラッチ」という概念でその「自分の持っていないもの」を論じられないかと思っているのだが、なかなかうまくいかない。

時は紅葉まっさかりの京都であり、東京では「フェスティバルトーキョー」という演劇の祭典の最中である。いますぐにでも飛んでいきたい気持ちを抑え、笑みを浮かべて楽しそうに歩いている観光客を見ていると、自分だけが深い底に落ちているように感じることもあるが、学生のみなさん、本当は、これは楽しいことでもあるんだよ。

ゼミの発表も聞いて深く考えると本当に面白い。今週日本ではフランスに比べて香水の文化が発達していない、それについての発表の後、「日本人は石けんの香りが好きだ」という指摘があったが、それはなぜかと考え始めたら止まらない。別の学生のPACSについての発表時に指摘された、日本では事実婚がフランスに比べて少ないという当たり前のこととして受け取られがちの現実もなぜと考えるとそんなに簡単なことではないことに気づく。

自分の論文については、いまだに混沌としており、完成へのかすかな見通しが見え始めたくらいの段階だ。なんとか、指導している学生たちが卒業するときに僕の論文も配れればと思って頑張っている。こんな苦しみはたぶん楽しいことなのだろう。(2012年11月16日、番場 寛)

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