あの歌が頭から離れない

 あるメロディーや歌が常に頭に流れていて消えなくて困ったという経験はないだろうか? Face bookで知り合いのTさんが浜田省吾の「悲しみは雪のように」を紹介していた。ふと昨年の「日本病跡学会」で、菅原誠一先生から、浜田のメランコリーと彼の作詞作曲した曲の関係についての発表を聴いたときのことが思いだされてYoutubeで浜田の「悲しみは雪のように」を聴いたのだが、すっかり惹きつけられてしまった。菅原先生は、木村敏が「ポスト・フェストム」と名づけた「保守的・事後的な時間の持ち方」を、自身も実生活でうつ状態を経験した浜田の歌が持っていながらも、それは「感傷的なレトリック」に陥ることがなく、「後ろ向き」な印象を与えないことを分析していた(レジュメが『日本病跡学雑誌』No.84,2012 にある)。

「悲しみは雪のように」だけで終わっていれば良かった。Youtubeで表示される浜田の他の曲のうち「片想い」という曲を聴いてしまったことでその曲というか歌が頭を離れなくなってしまった。(http://www.youtube.com/watch?v=iXaQHkxDYYU)。Youtubeであきたらなくなり、すぐにショップに走り、3枚組のアルバムを購入し、聴いたのだが、「片想い」ほど胸に響く曲には出会わなかった。夜聴いて、朝聴いて、研究室で聴いて、聞き飽きることを恐れているのにどうしても繰り返し聴いてしまう。

困ったのは聴いていないときでもその浜田の歌声が頭から離れなくなってしまったことだ。自分が想いを寄せる人は自分のことを好きではないことが分かっているのに、別れることができない。その人が微笑んでくれるのはただの優しさからだと知っているのに忘れることはできない。男性にも女性にも当てはまる普遍的な恋の苦しみを歌っているだけなのに、浜田の歌う声は聴く者の心のある部分にスイッチを入れてしまう。

ゴダールの『気狂いピエロ』で、ベルモンド演じるフェルディナン(ピエロ)が、アンナ・カリーナ演じるマリアンヌに裏切られて波止場で頭のいかれた男の話を聞く場面を想い出す。

その男はフェルディナンに、ある女を愛したときからあるメロディーが頭を離れないのだと嘆く。それは単純なピアノの曲なのに彼には「あなたは私を愛していますかEst-ce que vous m’aimez?」と聞こえるのだと言う。映画の筋からは一見関係なさそうなこの逸話は、マリアンヌの心をつかみきれていないフェルディナンのあせりを代弁しているように思えた。

ちなみに自分は現在、浜田の歌う「片想い」のような経験はしていない。しかし、思い出の中で生きている、想いを寄せた人の気持ちを得られない切ない苦しみは、まるで「喜び」と分からなくなるほど強烈だ。

ひそかに「満たされない欲望を持ちたい」と願う人間の欲望の本質を最も体現しているのが「ヒステリー者」の欲望だとラカンの精神分析では見なされるのだが、おまえはヒステリーだと知人から言われたこともある。

論文を書くためフランス語の本ばかり読んでいたとき、その反動からだろうか、テレサ・テンの歌、とくに「つぐない」という歌ばかり何度も聞いていて自分ながらにあきれていたのに、今は浜田だ。

この曲を頭から追い払うには、別の夢中になれる曲を探さなくてはならないのだろうか? それはあたかも失恋の痛みは、別の恋か、いや別の失恋によってしか癒やされないのに似ている。そしてもっと恐ろしいのは、その「痛み」こそひょっとして自分は求めているのかもしれないということだ。(2013年1月21日。番場 寛) 

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