眼差しの力 ― 黒子沙奈恵、草壁カゲロウ、サカイヒロト「ひとがた♯2」を観て―

 本屋で見つけるとつい買ってしまうものに整理本があるが、近藤麻理恵さんの『人生がときめくかたづけの魔法2』という本に捨てられない物のひとつに「ぬいぐるみ」があり、それを捨てる工夫として「目」が見えないように布やそのほかのものでくるんで捨てるというアドバイスがあった。捨てにくいのはぬいぐるみの「眼差し」のせいだというのは、ラカンが「対象a」つまり、欲望の原因となる対象のひとつに「眼差し」を挙げていたことからも分かるように、人間にとって「眼差し」というものが、いかに強い力を持って迫ってくるかを表しているかよく分かる例だと思う。

漫画やアニメでも眼差しは強い力を持っている。自分にはディズニーのミッキーマウスやドナルドダックの雄弁な眼差しはどちらかというと好きになれず、ハローキティやスヌーピーの目に愛しさを感じてしまう。どうしてだろうと思っていたら、数日前の新聞に、点のような目の方が見ている人の心に応じて多様な感情移入をすることができるからだと説明されており、まるで能面と同じ作用があることに驚き感心した。犬の眼差しには誰しもがそれを見ている人の体験に応じた感情移入が生まれることには誰も同意するだろうが、平板な漫画の顔に描かれたただの黒い二つの点が、同じくらいの力で人の感情をかき立てることには驚くばかりだ。

急にこんなことを思いだしたのは、2月10日に観た「ひとがた」というパフォーマンスの意味を考えていたからだ。これは「アトリエ劇研」の狭い空間の一階に配置した座席に加え、3方向に壁伝いに鉄パイプでやぐらのように2階に座席を配置し、床と天井の中間に蜘蛛の巣のように紐を張り巡らした部屋で、最初の状況の説明と手紙の朗読ということで構成のサカイヒロトから言葉が発せられる以外は、ダンサーの黒子沙奈恵と俳優の草壁カゲロウがともに人形を相手に無言劇が繰り広げる。一分ごとに時刻を告げる人の声が流れる中(もっと短い間隔だったかもしれない)、舞台上の2人は、ハンスベルメールが制作し、写真に納め、色づけした有名な「人形poupée」と同じく、関節で繋がり、外し、ばらばらにすることも可能な人形を相手に、動きを造っていく作品であった。

手脚をバラバラにされて床に散らばっている状態と組み合わされ人形の形として舞台上の人物に抱かれた状態との差異は驚きであった。白一色で、目もくぼんでいるばかりで、表情というものは全くないのに、それが抱きしめられたり、愛おしそうに撫でられたりすると、とたんにそこに感情が流れているように、観客には見えてしまうのが不思議だ。人形に目はつけられていないのに眼差しを感じてしまうのが不思議だった。

ストーリーがない無言劇なので、クライマックスは来ないのかと思っていたら、床に散らばった状態の人と人形に対し、チョークで素早くそれらの輪郭を床に描くシーンに感嘆した。それは丁度事故や殺人が起こったとき、そこに倒れていた人の位置をチョークでその輪郭を描いて示すのと同じである。

そして最初サカイヒロトが語った詩のような言葉が前の壁をスクリーンにして映し出されたかと思うとそれらの文字が次々と溶け落ちる。

その場面で「ひとがた」という題は単に「人形」という意味だけでなく、文字通り、「ひとがた」つまりそこに「人」がいたという痕跡をも意味していたことを知らされた。この上演後しばらくして思い当たったのは、この作品は東日本大震災で亡くなった多くの方の遺体への思いをも表していたのではないかということだ。

今は「不在」としてしか、「痕跡」としてしかその存在の確かさを感じることのできなくなってしまった死者たち。もし仮にまったくそういった文脈で造られた作品ではなかったとしてもこの作品で描かれているのは同じ想いである。それは、そこには描かれることさえなかった「眼差し」を感じる想いなのだろう。(2013年2月17日。番場 寛)

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