ご入学おめでとうございます(サルトルとラカンにちなんで)

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。
皆さんの顔を見ていると、うきうきとした新生活への希望がうかがえる反面、どこか不安な表情もうかがえます。

皆さんばかりではありません。この大谷大学の構内のあちこちに咲き乱れる桜を見ているとぼくは、つい梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という文章が浮かんでしまうほど、言いようのない不安が、うきうきした気持ちと同時にわいてくるのです。

たまたま今読んでいる二人のフランス人が「不安」について述べていることを思い出しました。一人はジャンポール・サルトル(1905-1980)という実存主義の哲学者であり、他方はジャック・ラカン(1901-1981)という構造主義の精神分析学者であり医師です。二人とも20世紀のほぼ同じ頃生まれ、同じ頃亡くなっているのですが、「不安」に対する考え方が対照的で、皆さんにもお伝えしたいと思いました。

サルトルは、人間というのは、一瞬、一瞬、自分を、今の自分ではない存在へと未来へ向けて投げ出すことによって自分というものを造り上げていく存在なのだと説明しました。「まだそうでない自分」というものを投げ出す未来とは「何もない」ものですからそこに「不安」が生まれると言うのです。すこし難しい言葉で言えば存在が欠如していることが不安の原因だというのです。

一方ラカンは、そうではなくて不安は、その欠けているものこそが欠けている状態から生まれるのだと少し分かりにくい表現で説明しています。

また「自分とはどういう人間であるのか」という問いかけに対してはサルトルによれば一瞬一瞬今の自分を未来に向けて今の自分ではない存在へと変えていくのが人間のあり方ですから、「自分とはこれこれの人間である」などと決めつけることはできないことになります。

一方ラカンという人は少し難しいのですが、ある人を表す言葉(息子、大学生、男、日本人・・・)は別の言葉(父親、母親、女、フランス人・・・)に対しその人を代表的に表すに過ぎない、つまり「あなた自身」の存在とはそうした言葉の関係の網の目の結果として浮かび上がってくる存在だと説明しています。

サルトル、ラカン、どちらの考えに従っても、よく言われる「本当の自分探し」というのはおかしいということになります。「本当のあなた」という存在は、一瞬一瞬あなた自身が他者との関係において、自分の行動を選択し、「今はそうではないあなた」へと向かって造り上げていくものだということになります。

そしてそこには当然「不安」があることになります。
あなたも、それこそ生きている証である「不安」を抱きしめながらこの大学でわたしたち教員と学んでいかれることを祈っています。
(2013年4月2日。番場 寛)

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