保坂和志のトークライブを聴いた後、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み終える

四月十三日はジャック・ラカンと、自分にとって強い影響力が痕跡として残っている人物二人の誕生日であった。ミーハーみたいなのは厭だと思っているくせに、会場が近いこともあり、徳正寺で行われた保坂和志のトークライブを聴きにいった。

彼の小説は二冊ほどしか読んでないが、かれの小説に対する著作は最近の『カフカ式練習帳』を初めとても惹かれる。彼にとっては普通の物語や主題のあるような小説は不可能なのに、読んでいるとどうしてかと思うほど思考の運動のリズムが心地よいのだ。

花冷えのするお寺の本堂の仏壇を前にして、現代日本の純文学を牽引するひとりの語りを聞くというのも京都ならではのことだろうと思いつつも三時間も話し続けられるのだろうかとも思っていたが、保坂さんは精力的に話し続けた。最初に渡された読みにくい文字で書かれた手書きのレジュメを見て予想していたが、実際まるで精神分析における自由連想のように話は脱線に次ぐ脱線の連続で終わったが、正直言ってこんなに面白いトークを聞いたのは初めてといっていいくらいであった。彼のエクリチュール(文章を書く意識の運動のあり方)そのままの語り口で、彼の小説に対する考え方がよく分かった。

接続詞(だから、しかし、・・・)を出来るだけ使わないように努めるのは、ある書き方のパターン、たとえば俯瞰的な視点から物事を見てしまうこと、に陥らないためだとか、主題なり、メッセージなどが分かって書いている小説があるとしたらそれは読む価値がないとか、いちいち納得できる考え方が披露された。

ひとつだけここで紹介しておきたいのは、長島と松井、それに他の選手の具体例を挙げて説明した「素振りのすごさ」についてである。長島が電話越しに素振りの音を聞いてどの素振り(バットを振るフォーム)が良いかを見極められるほど「素振り」というのは大切だというのは、小説における「俯瞰的な構成やテーマ」ではなく、部分、つまりエクリチュールそのもの、しかもイメージに還元されない言葉を紡いでいく運動そのものこそ大切だということなのだと自分は理解した。

まだ他に沢山得たものはあったが、その後の飲み会には参加せず甥と食事した後『色彩を持たない・・・』の続きを読んだ。十二日の早朝烏丸駅内の地下通路でクリスマスケーキのように売っているのを買ってからすぐ読み終えたかったが、授業のためできなかった。

新作を読み始めた人はおそらくすべての人が戸惑ったのではないだろうか。それは書き出しはポール・オースターの小説に似て最悪の心理状態にある主人公の内面の記述から始まったせいではなく、驚くほどリアリズム風の書き方が続くことだ。初期の作品から『海辺のカフカ』、『1Q84』へと続く長編はいずれも幻想的、物語的な、非現実的な展開をなし、それが村上ファンの多くを魅了してきたと思われるのに、驚くほどまっとうな、一見普通の小説の書き方をしているように思えた。

映画の台詞をまねた「良いニュースと悪いニュースがある」というようないわゆる気の利いた遊び的な台詞は控えられ、いわば直球のように、メッセージが登場人物の台詞にそのまま書かれるのだ。ふつうだったらそんな描き方は、まるで小説の初心者が書くようなやり方でしないのだが、村上があえてそのような描き方で始めていることに驚いた。これは保坂だったら、「それだったら小説なんて書く必要はない」と断言することだろう。

しかし、さっき読み終えて「それでも村上春樹はやはりすごい」と感動したのだ。ハンサムで経済的にも何の不安もなく、勉強もでき、ガールフレンドにも恵まれているのに「色彩だけを持たない」主人公を設定したところから見事さが際立っていた。普通は欠点なりコンプレックスを自覚していることが登場人物の条件なのに、つくるにはそれがなく、他の4人の友人たちの姓に色がついているのと対照的に彼の多崎という姓には色がない。

その名と同じく彼には他の友人のような「色」と呼べるような個性がないことが、強いて言えば彼の悩みだった。たまたまサルトルとラカンについての本を読んでいたせいだろうか、どうしてもこの小説も二人の視点と比較して読んでしまう。

多崎つくるには多くの小説の主人公のような欠けている点はないが、その「欠如が欠如している」ということが村上春樹の主人公であるゆえんとなっている。「欠如の欠如」は普通の「欠如」のように埋めることは困難である。小説の最後でつくるはようやく「普通の欠如」を見出し、それを具現した沙羅という一人の女性への愛と欲望を自覚するところで終わっている。

村上の得意は比喩はおそらく禁欲的に押さえられ、まっとうな会話と見事な描写を前面に出した書き方になっている。哲学的エッセイとして書く方がふさわしいのではないかと疑問を感じるような書き方と、ずっと村上文学に続いている「欠落感」、この小説において特に直接的には一つも言及のないことが、却って3.11後の多くの大切な人、大切なものを失った多くの人の「欠落感」を、「巡礼」というタイトルとともに、その背後に感じさせる心理描写として暗示されている。それは何度も繰り返される「痛み」という生理的な感覚として何度も書かれている。地下鉄サリン事件についてはこの小説でいちどだけ直接名指しされないまでも書かれているのと対照的で、この小説で一度も触れられていないことでその「欠落感」はすべての時代のすべての人間に当てはまる普遍性として描きたかったのではないか?

主人公の名前は「作」なのにあえて「つくる」とひらがなで書かれており、その意味も「駅」を作るのを夢見ていた主人公が実際に十六年後にその仕事についていることで小学生にも分かる書き方で説明されている。

たまたま再読したサルトルの『存在と無』の最終章は「為す」と「持つ」ということを論じて終わっている。「存在欠如」として運命づけられた人間はその運命を自ら受け入れて生きていかねばならない。サルトルの小説の『嘔吐』の主人公。ロカンタンは、何かを創り出すことで人は存在の呪いから解放されると思い当たり、小説を書こうと思うところで終わっている。

村上の小説の多崎つくるは、「愛すること」と同時に「つくる」ことの意義を自覚することで救済への可能性を暗示させて終わっている。(2013年4月14日。番場 寛)

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