「LOVE展:アートにみる愛のかたち― シャガールから草間彌生、初音ミクまで―」(森美術館にて)を観て

「日本フランス語フランス文学会」の春期大会に参加するために1日早朝、朝ドラの「あまちゃん」を観てから、急いで新幹線に乗った。到着直後に向かったのは、六本木ヒズルにある「森美術館」で開催されている「LOVE展」である。

「愛」をどうやって形象化すればよいのだろう? 入り口近くの部屋に展示されていたのは、LOVEという文字そのものや、ハート形の作品であった。また普通思い浮かぶように、恋人同士が抱き合っている姿(ロダン「接吻」ブランクーシ「接吻」)、の作品も多かった。

観客がマイクに向かって何か話しかけるとそれに連動して愛の詩を機械的な声で朗読するロボットがおもしろいとは思った(やくしまるえつこ他作「プロポーション」(2011)が、驚きは無かった。

本物も何度か見ていた筈なのに改めてやはりすごいと思ったのは、ルネ・マグリットの「恋人たち」という絵である。この絵は最初に見たのは多分画集でだと思うが、見た瞬間に自分では「分かった」と思ってしまった。今回のこの絵の横には、入水自殺した、マグリットの母親が発見されたとき、顔が布に被われていたエピソードが告げられており、マグリット自身は象徴的、精神分析的な解釈を拒否したと説明されているが、ぼく自身はこの絵はそのタイトル通り、つまり「恋人たち」を表していると思う。

ルネ・マグリット「恋人たち」版権は分からないので苦情があったときは削除します。

ルネ・マグリット「恋人たち」版権は分からないので苦情があったときは削除します。

現実には相手の精神的なものも含んで顔に代表される身体を愛し、行為としてキスをするのだが、それは互いにベールで被った相手に恋をしているのと変わらないのではないか? つまり恋する相手の本当の姿というのは、その恋する主体の心の中に存在しないのではないか? だったらベールで被われている顔に自分の見たいものを見ているのとどこが変わっていよう。

既に何回か見た事のある傑作はやはり何度見ても感動するが、今回初めて見たもので印象深かったのは、「愛を失うとき」というセクションに展示されている幾つかの作品である。その中でソフィ・カルの「どうか元気で」(2007)という作品は、「恋人から届いた別れのメールを、様々な職種や技能をもった女性107人に送り、その解釈や分析を返信してもらったプロジェクト」だと説明されている。

その中で目を引いたのはフランソワーズ・ゴロという精神分析家から送られた有名なJ.ラカンの「性別化の論理式」の表である。

展覧会図録p77より。ラカンの性別化の式を写した一部。左側がUn homme男、右側がUne femme女と書かれている。

思えば、ラカンは「性関係はない」と謎の断言を残し、今なおこの式はフェミニストたちがラカン理論を批判するときでさえ、引用される表である。これはラカン自身が示したのとほんの少し違っているが基本的には同じと言って良いと思う。これを見ているとずっと前にこのブログで紹介したが、マリー=エレーヌ・ブルス先生が、「ラカンが言ったように性関係はないのです。だから恋愛小説は書かれ続けるのです」と言った言葉を思い出す。

難しい理論はいやだという人でも、この表の左側の男と右側の女の求めているものを示す矢印が交叉することなくすれ違っていることは分かるだろう。「愛を失うとき」ではなくそもそもすれ違っていたのだろうか?

また今回の展覧回で個人的に一番面白かったのは、TANYという女性の「昔の男に捧げる」(2002)というビデオ作品である。夜の空き地で、無抵抗な一人の男を、一人の女性が一方的にひっつかみ、殴り、蹴飛ばすことを繰り返すだけの映像で、そこに昔ヒットした五輪真弓の歌う「恋人よ」という曲が被さる。

「・・この別れ話がー、冗談だよと笑って欲しい♫・・・」澄んだ五輪真弓の声(https://www.youtube.com/watch?v=_ZkgtU8UoZE)がこの映像にあまりにもぴったりなのだ。

驚いたのは、殴られているのはTANYのすでに別れた恋人の会田誠なのだ。その説明を読んで映像を注視すると、蹴飛ばしている足先は体にわずかに離れていることが分かった。
つまり別れた元恋人の芸術家に頼み、「別れた恋人への怒りを爆発させている女」を演じているのだった。

それを見ていたとき、笑ったのち、別れてもなお相手が作品を創ろうとすることに協力している会田の「愛」が窺えるようで逆に感動してしまった。

最後のセクションの「広がる愛」という展示コーナーでは、秋葉原で購入したセックスドールに着せ替え人形のようにいろいろな服を着せ、写真に撮ったローリー・シモンズの「ラブ・ドール」という作品がうっとりするくらい可愛らしい少女なのだが、それ以上に驚いたのは、やはり展示会の出口近くで披露されている「初音ミク」であった。

彼女の映像は何度か見ていたのだが、大きな部屋で彼女は映し出された映像に過ぎないと分かっているのに、無数の男たちがライトを振り、歓声を上げている彼女のコンサート風景には驚くばかりだった。かれらはミクが現実には存在しないことを知っているのにあれほど恋い焦がれ熱狂することができるのだ。

歌う仕草以上に歌い終わって長い手脚を動かし挨拶する姿を見たとき、みんなが夢中になるのが分かった気がした。

瞳がどうの、胸や手脚がどうの、長い髪が、いやショートヘアがどうのといって愛や恋をしていると思っている人間もしょせんこうした幻影を観ているのとどこが違うのだろうか? 「失われたもの」「実際には存在しないもの」としてしか「愛」は表せないとしたならマグリットの、ベールで被われた相手の顔にキスをしているあの二人こそ最もその「愛」の姿を現すのにふさわしいのはないだろうか?(2013年6月5日。番場 寛)

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