オイディプスの裏側としての韓国映画とフランス映画に描かれた母親-「嘆きのピエタ」「母親の身終い」を観て―

 ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した、韓国映画、キム・キドク監督「嘆きのピエタ」を見終えて、つい一週間ほど前に見たフランス映画のステファヌ・ブリゼ監督「母の身終い」(2012年)で受けた衝撃との違いに驚いた。
 
「嘆きのピエタ」は、法外な利息を課して金を貸し、返せなくなった貧しい人たちに対し、無理矢理事故を起こさせ、保険金が下りるように仕向ける、冷酷非情な金の取立屋の青年、カンド(イ・ジョンジン)が主人公である。
 
映画では彼に故意に障害者にさせられてしまう暴力の描写が、実際には映さないのにあまりにリアルでスクリーンから何度も眼をそらさせる。繰り返されるのは「金」を返せない人が主人公のせいで悲惨な目にあい、自殺までしてしまう場面である。

主人公がまるで心を持たないロボットのような人間であることを観客に納得させた後で、彼に突然、幼い頃にお前を捨てた母親だと名乗る、彼よりは年上だが年齢的には信じがたいほどの若い女ミソン(チョ・ミンス)が現れる。

最初、信じない彼は、その女を押し倒し、股間に手を当て、「本当に俺がここから出てきたのなら、ここに戻ってもいいのか」と女を脅す。これは紛れもなく近親相姦の禁止の法を冒してしまうオイディプスの変形の話だと想った。

しかし、彼女がしつこく彼の住まいに上がり込み、食事を作ってかれに食べさせるうちに、次第に彼のその冷酷さが溶けるように変化していく。これは母親が息子を想う、裏返しにされたオイディプスの物語だと想った。

母親の息子を想う気持ちの強さ、それと同じくらい強い息子の母親を想う気持ちの強さが今回の映画のテーマだったが、それが資本主義社会をごく単純化した「金」に苦しむ人びととの対比として描かれていた。

この韓国映画に描かれた母の息子を想う気持ちの強さには驚愕するとともに、その前に「フランス映画祭2013 in関西」で観た「母の身終い」という作品を観たときの衝撃を思い出した。

この映画も筋は単純である。犯罪を犯し刑に服していた48歳の息子が出所するのだが、すぐに職も見つからず、母親が一人で住む実家で生活をする。母親とはもともと折り合いが悪かったのだが、仕事が見つからない苛立ちから、いろいろと細かい注意を言われる母親とは激しく口論してしまう。

そのうち母親は続けていた脳腫瘍の治療が治癒の見込みがなくなったことを知らされる。この映画でもっとも驚かされるのは、彼女のとった選択である。

彼女は、自分でスイスのある施設から書類を取り寄せそこに申し込んでしまう。それはフランスでは禁止されているが、スイスでは法的に認められている「安楽死」を手伝う施設だった。

彼女を見守り、 最後まで緩和ケアが可能なことを告げそれを勧めるフランスの医師のすすめも断固として拒否しての母親の選択である。

スイスへ母親が出発する前に離婚した夫、つまり息子の父親と抱擁し感謝を述べ合うのだが、彼女にスイスの施設までつきそうのは、息子である。

息子は何も語らず、母親が死の床で死をもたらす薬を飲む瞬間まで彼女の手を握りしめたままである。

もう余命わずかだと告げられたとはいえ、身体的な苦痛はまだ皆無で、意識も明瞭な状態での母親の自死の実行は、どうしても納得がいかないし、明らかに母親を想う息子の気持ちも伝わってくるのだが、取り乱すこと無く、死んでいこうとする母親を見守ることのできる息子も信じられなかった。

偶然おととい大学のホームページの動画で観ることができた「親鸞フォーラム」(6月9日)で高橋源一郎の言った言葉が思い出される。彼は、やがて死ぬことが分かっている子供たちの住むあるホスピスの施設が明るさに満ちている理由を、「もう死ぬんだと考えるのではなく、残された時間をいかに楽しく過ごすか」ということに皆熱心だからだと説明した。

そして彼は「考えてみれば、われわれも死ぬのが確実だという点では、みなホスピスにいるようなものですね」と言う。

映画の母親もその息子もどうしてそうした考え方をしないのだろうかと思ったが、フランス人の「個の強さ」が現れているとも思った。

いまだに考え続けているのは、2本の映画に現れた、母と息子の互いを思いやる気持ちの違いは、文化の違いによるものなのかという問題である。日本でも「瞼の母」という話もあるし、仏教の世界でも有名な阿闍世の物語もある。

実は、本物のミケランジェロ作「ピエタ」を何十年か前にバチカンで見たことがある。少女のように若いマリアが、息絶え横たわるイエスを抱え悲嘆にくれている。ふとぼくの横を見ると、一人の老婆が腰掛けたまま、穏やかで幸せそうな眼差しでその母子の像を見つめている。ぼくはその老婆の穏やかで信仰心が溢れている表情にも見とれていた。

ミケランジェロ作「ピエタ」(ウィキペディアより)

ミケランジェロ作「ピエタ」(ウィキペディアより)

すると突然その老婆は立ち上がり像の前までいき跪き、手で十字をきったかとおもうと、その像の足元にキスをしたのだ。驚き彼女が離れたあとの像を見ると部分的に白く光っている部分が見えた。それが無数の人によるキスによるものなのかどうかは今となっては分からない。

そのとき思った。フロイト的に考えれば人がキスをするのは口唇欲動によるものだ。ではあの光景は信仰心と口唇欲動が結びついた光景だったのだろうか? 確実なのは、 完全に幸せそうに見えた老婆にもひょっとして苦しみがあったのではないかということと「なぜ人間はこのように造られているのか」という疑問であった。

時代も国も遠く離れたギリシアの物語として伝えられているオイディプスの物語は普遍的なものだということを信じてしまっているが、その現れ方には映画の面でもこれほどの違いがあるのだと思い知らされた2本である。(2013年7月4日。番場 寛)

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