台詞ではなく普通に話すとはどういうことなのだろうか?-「あまちゃん」、「CHITENの近現代語」―

 朝ドラの「あまちゃん」でとうとうアキは憧れの先輩を自宅に連れてくることに成功し、二人きりで話し始めるが、両方ともぎこちない。そのときアキは言う、「雑談って難しいな」と。

このドラマのリアリティはアイドルを生み出すその現場そのものを描いているだけではなく、台詞を言い、ドラマを作っていく過程そのものをドラマ化している点にある。

最初アキがドラマの端役を始めて任されたとき失敗を重ね40回もやり直しをしたときのことだ、彼女は首になるが、そのとき太巻は、「40回もそれぞれ違った失敗をやるなんて天才だよ」と吐き捨てるように言ったが、それは逆に考えればそれだけの失敗(実際には数回しか映らないが)をやるように演出し、その失敗を演技として能年玲奈が演じたということはすごいことだ。

そうした常に台詞を覚えることを強いられ、演じる言葉として話している彼女が、本当の気持ちで好きな人と話そうとするとき戸惑うのはよく分かる。

そんな場面を見ながら、自分が参加する演劇やダンスのワークショップで覚えられない、台詞や振り付けのことを思い出した。作品として人に見せるのだから反復可能な言動や行為として実現できなければならない。しかし記憶力の低下か、かなりの困難を感じることが多い。

では朗読劇はどうなのだろうと考える。先日「アンダースロー」という自前の劇場を設立した三浦基率いる「地点」の「CHITENの近未来語」という公演を観た。連日公演する意味はあるのだろうかと思って観て納得した。

その日の朝刊に載っている記事の朗読を基本にして、そこにオノマトペや宇宙人か未来人か分からないような発生が挟まる。行為や動作をしては新聞を丸めたり、椅子に腰掛ける動作を変えたり、互いに呼応する動作をするだけだが、中身の濃い一時間であった。

前回の「CHITENの近現代語」では歴史的に知られた言葉が発せられたが、今回は「新聞」というむしろ発話者が匿名の言語を俳優が朗読するという形をとっている。それを聴きながら覚えなくても、朗読しても劇は創れるのではないかと思わせる力があったということと、われわれのこの現代は何でできているのかといえば、言葉(単なる情報ではない)でできているのだと再認識させられた。

例えば認知症の人の話す言葉は、時間も空間もこの現実とずれているかもしれないが、その人の心の中では劇の台詞のように現実として語られているのだと思う。うわべはどんなに現実と合致しているように聞こえても、政治家や評論家の空疎な言葉と比べてどちらが価値があるのかは分からない。

例のドラマや今回の「地点」の公演を観ていると、わたしたちは日常生活においては、台詞を覚えていないのに、どうして普通に話せるのだろうと不思議に思えてくる。

「地点」がこの京都に根ざしたことを嬉しく思う。それは京都の人が「地点」の言葉を必要としている証だと思うからだ。まだ公演は続いています。

ところで今晩から学生たちと一緒にフランスに研修旅行に旅立ちます。台詞ではない言葉の交換を学生たちやフランス人たちと楽しみたいと思います。
高校生のみなさん。明日のオープンキャンパスにもいらしてください。
(2013年8月23日。番場 寛)

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