冬の青空の下で感じる後ろめたさと怒り

ところどころ雲があるが青空がのぞき、突き刺さるほどの寒さなのに温かな日差しがさす日が続いている京都の街を歩いていると、なぜか後ろめたさを感じるのは、自分が雪国で生まれて育ったからだろう。

東京に住んでいたときも真冬の青空が嘘のような気がするだけでなく、自分が冬に晴れ渡った青空の下にいることが何かすまないような気がしたのは、その頃故郷は雪に埋もれており、みぞれ交じりの冷たい雨か雪が降っているのが当たり前だからだ。

この冬休みも故郷の新潟県の田舎で過ごしたのだが、人と会う度に交わされるのは「今年の正月はいいのお、雪が降らないで」という挨拶ばかりだった。

雪が降らないだけで雪国の人がどれほど幸せに過ごせるかは、それ以外の土地で育った人には分からないだろう。ぼくも高校生まで、なぜ人が、こんなに雪の降るところなんか住みたくない、と言う意味が分からなかった。冬は雪が降るのは当たり前のことであり、それが不幸だとは思えなかった。しかしその土地を離れて生活し故郷のことを思うと身にしみることがある。昔家族で屋根に上がってしていた雪下ろしを、若者のいなくなった家庭では人に依頼して行ってもらうが、一回平均3万5千円から4万円程度かかる。ここ数年は2回から3回依頼している。石油をたいて屋根を暖め消雪する家もあるが同じかそれ以上費用がかかるとも聞いている。

また殆どの家が車を利用しているが、それが家から国や県の道路まで出る区間の消雪は井戸を掘り、その地下水で消している。その費用は各家の道の長さによりまちまちだが、一冬で2万円から3万円くらいかかるらしい。

日本海側で雪が降り落ちてくれるので太平洋側は晴れているのだということから感じる罪悪感にも似た後ろめたさだったのだが、遠く離れた京都に住むようになってもそれを感じる。

ところで同じ青空の下、烏丸通りを歩いていて、ある光景に目がとまった。最初にそれを見たときの印象は、かわいそうに、というものであり、その直後に強い怒りが沸いた。写真 (1)

まさに都会のど真ん中なのに、等間隔で植えられている並木が殆ど全て根元から一メートルくらいのところで断ち切られ、それが青いシートで包まれている。どうしたことかと見るとところどころ説明書きが貼られている。木が大きく成り、倒木の危険性がでてきたこと、虫の害がでてきたこと等が説明されており、別の種類のケヤキを植林していくという。

ここを歩くのが本当に好きだった(今も)。特に青空の下、真夏の乾いた空気の中を歩いて行くとここはパリではないかと思わせる程、木陰が心地よいのだった。

そんな個人的な印象は単なる自己中心的なものだろうが、せっかく保護し何十年も育ったまだ健全な木々を切り、抜き取り、別な木に植え替える理由がいまだに理解できない。国際文化学科の環境と文化との関係を教えておられる先生方にも意見を伺ってみたい。

年老いたとはいえ、まだまだ元気に働いているのに、見栄えが悪くなったのか、他に迷惑をかけるのではないのに、肩たたきにあって止めさせられてしまう人のように擬人化してしまうのも間違っているであろう。

後ろめたさも怒りも非常に個人的なものであり、自分が育った環境と生きた年月によって形成されたという限界があろう。だが人間は得た知識と粘り強い思考を積み重ね、想像力を鍛えることで、その感受性までもより豊かな生へと自己と他者を導くものへと変えていくことができると信じている。

普通に考えればかなり難しいのだが、この怒りが、通りに植林される若い木々が生長し、また美しい並木道をつくってくれることを夢見ることで消えてほしいと思う。(2014年1月14日。番場 寛)

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