想像力の射程―百年後に開けるタイムカプセルに入れるメッセージとは?―

「百年たったら帰っておいで 百年たてば その意味わかる」と書いたのは寺山修司である。実は一昨日の教授会の最後で鈴木寿志学生部長からのお知らせを聞いたときこの言葉を思い出した。

それは本学の「赤レンガ百周年」を記念して、百年後に開けることを目的とした百年後の人に向けたメッセージを入れたタイムカプセルを埋めるというものだった。それを聞いたとき一瞬の沈黙の後、多くの人に微笑みが浮かんだ。なぜならその部屋にいる誰一人として百年後にはこの世に生きていないのは確かだからだ。

百年前の生活を想像することも難しいが記録は残っている。しかし百年後の生活もその時代に生きている人のことを想像することはかなり難しい。

実は今「フランスの民衆文化」という授業で「小さな哲学者たち」というフランスのドキュメンタリー映画を見せている。それはフランスのジャック・プレベール幼稚園というところで3歳から5歳の子どもを対象に、先生が「哲学の授業」を行うというものだ。

いわゆる「哲学」の知識や体系を教えるのではなく、知識や語彙の殆どまったく欠けている子どもに「大人とこどもはどこか違うか」とか「リーダーとは何か」とか、という問題を投げかけ、答えさせるという授業だ。

この映画を見ていた学生が指摘したのは、自分なりに答えや意見を述べられる子がいることに驚くと同時に、それでいて「あなたは大人になったらどうなっているか」という質問には、例えば結婚していない両親と暮らしている子が「自分が親と結婚するんだ」と答えるなど、少数の子を除くと、その質問だけ答えられない子が多かった点である。

つまり現実に見ていることについては考えられても、想像力を未来にはせて考えるのはやはり難しいことが分かる。

今年の夏の電力とか、現在の産業や経済効率のこと、6年後のオリンピックについては考えることは容易でも、百年後、二百年後の放射性廃棄物をどうするかについて考えることは、知識にもとづいて想像力を働かせる努力を必要とする。

また時間ではなく、空間的に遠く離れたタイの騒乱や今なお苦しんでいるパレスチナの難民、そこまで遠くなくとも距離的にはずっと近いこの日本の福島や沖縄の人たちへ想像力を働かせることを怠ることがある。どうしたら想像力の射程を伸ばせるのだろうか?

寺山の残した言葉の「百年後」には誰が帰り、そしてそのとき分かる「意味」とは何だろう?また寺山は絶筆で「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分」と残している。寺山の残したことばは何て射程が長いのだろう。たとえ、本人の意志に反して建てられてしまった寺山の墓が長い年月で朽ち果てたとしても、彼のことばは残り続けるであろう。

教授会の会議室におられた全ての方々だけでなく、これを読んでいるあなたも恐らく亡くなっている百年後の世界、その世界に生きている誰かに向けて伝えたいとしたらあなたはどのようなメッセージを残したいだろうか?(2014年1月17日。番場 寛)

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