「教えること」が「愛」である筈はないのに

今は試験の採点の真っ最中なのだが、精神状態はあまりよくない。あんなに繰り返して教えたのにどうしてできていないのだ、などと思うことも多い。腹が立つのは、自分の力を思い知らされるからだ。つまり学生の答案の出来具合は、そのまま自分の教える力を表しており、採点しているのはその成果であるからだ。

中でも一番思い入れの強かったのは、一年生のフランス語のクラスである。週二回顔を合わせるということもあるが、そのせいだけではない。教室に入ったときから何か言葉にできない親しみのような感情がこちらに伝わってくるのだ。それでいて日本語で説明することが伝わっていないという気がしていらだっていた。

何かを伝えたいのにうまく日本語がつたわってない、それでも何かを伝えたいということで、何を思ったか最後の授業で、今一番学生たちに伝えたい、大好きな岡林信康の「わたしたちの望むものは」(アルバム「見る前に跳べ」に入っているがYouTubeでも聞けます)を流してしまった。学生たちはどう思ったかまるで分からない。

「好意」とは言えないまでも、伝わってくる何か温かな親しみの感情を受けとめながらも、教えるべきことを理解させられないもどかしさ、悔しさを感じていた。その結果は今回の試験の結果にもはっきりと出ている。

そのクラスだけではないが、特にそのクラスは教壇に立つ度に不思議な気持ちに襲われた。どうしてぼくはこの学生たちと出会い、この場に一緒にいるのだろうと何度も思った。それはぼくがこの大学で働くことができ、学生たちがこの大学に入ったただそれだけのことで、たまたま二つの偶然が重なっただけのことなのに、それが不思議でならなかった。

ふと浮かんだのが、ずっと昔、書かれていた箇所は忘れてしまったが、立川健二さんが、ソシュールの概念であるシニフィアンとシニフィエの「恣意性」という概念を説明するときに、「恋愛」か「結婚」という二人の関係をアナロジーとして使っていたことだ。

ジーニュsigne(言語記号)のシニフィアンsignifiant(意味するもの、((音声や文字がその役割を果たす)))とシニフィエsignifié(意味されるもの、概念)とは何ら必然的な結びつきの理由を見いだせず、まったく偶然に結びついているだけの関係である。それなのに現実にはぴったりと結びつき、あたかも必然的な結びつきのように機能している。

世の中の多くの人と人との出会いは偶然であり、なんら必然性のあるものではない。自分の意思で選んだつもりの「結婚」であれ、「恋愛」であれ、まず出会ったのはシニフィアンとシニフィエのような「恣意性」のもとに出会っているにすぎない。

ところで、先日卒論の口述試験が終わったとき、ある学生からある言葉を投げかけられ嬉しさを隠すのに苦労した。主査の先生も同じ気持ちだったろう。それはその学生が昨年受講していた授業がとても面白かったと感謝の気持ちを述べた。ただそれだけのことであった。

その授業はたしかに「物語論」から入り、絵画の精神分析、そしてフロイトの「狼男」の話、そして今年も見せたフランソワ・オゾンの『ホーム・ドラマ』という、うまく説明しないと非難されそうな危ない映画で終わった授業だった。絵画の好きな彼女が興味を抱いていたというのは理解できる。

彼女に申し訳ないと思ったのは、彼女が受講していたことをその発言があるまですっかり忘れていたことだ。

情けないと自分で思うのは、これだけやったのだから、と常に他人の承認や成果を求めてしまうことだ。

前にずっと前にここで書いたつもりだった。人に向けて何かを書くということは、メッセージを書いた紙切れをいれた小さなガラス瓶を海に投げ込むようなものだと。誰にも読まれないかもしれなくても、届くことを祈って書こうと思った筈なのに。

そう思い直してみれば、ぼくの言葉が、教えたことが届いている学生の答案も確かにあることこそ喜ぶべきなのだろう。

たとえぼくの言葉が届いてなかった人もいたのは認めざるを得なかったとしても今年も言おう。君たち、本当に楽しかったありがとう、と。(2014年2月4日。番場 寛)

 

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