ダンスとは無意識の解放ではないか?―きたまりのワークショップ「ダンスを探す会」、双子の未亡人公演G-g(s)(京都芸術センター)にて― 

まるで冬眠している動物のように半年くらい踊ることはなかったが、ついに先日ki6のきたまりさんのワークショップに参加した。驚いたのはいきなりA4の紙一枚渡され、そこには今日のワークショップは言葉を使わないでやるので自分のまねをしてほしいと書かれていたことだ。

手脚をこすり暖めるウォーミングアップから入ったが途中からまりさんが、急に表情を変え、もどかしそうに顔をゆがめ、ついに言葉を発した。身振りで自己紹介をしてほしいと伝えたかったが、みなまねをするばかりで伝わらなかったからだ。

それからは、身振り、ダンスをしながら自分の名前をいい、自己紹介をするという指示に変わった。それからは年齢を3歳、60歳というように想定し、動作を繰り返したり、身元(スチューワデス、ラッパー、相撲取り)を自分で想定して同じ自己紹介の動作だけを繰り返したりするものだった。

一連の動作で分かったのは、意思なり意味を伝達するときに、いかに言葉に依存しているかである。

それだけにそれから2日後に同じ「京都芸術センター」で観た「双子の未亡人」の「G…g(s)」というダンス公演には考えさせられた。途中でドラムの生演奏が入るところと部屋の窓を開け放ち、部屋から出て行き、また入ってくるシーンを除けば、照明の演出は入るが、音楽さえも禁欲的にリズムを刻むところに限るなど、一切道具は使わず、二人、二人と離れたところで踊る一人、集団で、と、すべて人と空間だけで成り立たせている禁欲的な、いわばコンテンポラリー・ダンスの原点回帰の方法のひとつとも言える舞台で、2時間あまり(確かではないが)を踊りきったというのはそれだけで素晴らしい。

というのは、題が「G-g(s)」で、あとでチラシを見たら「Groundless-ground(s)」(「根拠のない場、立場」といった意味だろうか)と書かれていたのだが、そのときは見てなくて、まっさらの状態でダンサーの動きを追った。つまりタイトルから「物語」や「テーマ」を想像することなく、純粋に動きと空間構成、それに照明による効果だけを目で追うことだけでこの作品を観ることになったからだ。

最初は荻野ちよさんと佐伯有香さんのユニゾンで、同一化した動きとずれが美しく調和していた。それから人が増えたり減ったりで踊るのだが、今言葉にできるようには残っていない。

ただ福井幸代さんと相手の男性が接近したり、反発したり、接触したり、離れたりするシーンは、少し長すぎるようにも感じたが、動きとして良く出来ており、僕は「痴話喧嘩」という言葉が浮かんだ。その二人から離れた場で、一人の男性が二人とは無関係な動きをしていたが、それらの3人を同じ空間で見ていると、3人の関係はどういうものなのかと考えざるを得ない。離れた場にいる一人が女性なら、男女のもつれとか嫉妬という言葉が浮かぶのだが、分からなかった。

この例で分かるように、舞台として、たとえ物語ではない、言葉のない動きでも観客にとってはその動きの原因、関係を考えずにはおれないということだ。

おそらくすべての観客が素晴らしいと感じた瞬間は、全員でそれぞれ一定の規則で反復する動きを取りながら立ったりかがんだりを繰り返すシーンだろう。少しもぐらたたきゲームをも想像させられてしまった、全体も向きを変えるという、まるで幾何学的な側面もありながらそれを自然に感じさせる素晴らしさだった。

一時的に全員が部屋の外へ出て、再び入ってきたシーンも、全員が不在となり、空間だけが残されることで、直前まで繰り広げられた動きをまるで「残像」のように記憶として意識させたかったのかもしれないと思った。

あとでチラシを見たら「記憶は過去の産物ではなく、それ自身が未知のダイナミズムを渇望する」「”記憶とからだのたゆまぬ相関関係“を綴る」と書かれていた。

「双子の未亡人」というネーミングの見事さにはいつも感心させられていた。「未亡人」とはすでに成熟したエロスを体現していながら、妻や主婦という日常性からは自由になった存在。しかもそれが「双子」という言葉で増幅されるからだ。マルセル・デュシャンに「Fresh widow(成り立ての未亡人)」というタイトルの作品があるが、それは閉じられた窓であり、黒い皮を張られて中がのぞけないようになっている。

「French windowフランス式窓」の言葉遊びに基づいている作品であるが、閉じられ中が隠されている窓が、開かれることを欲望させるという意味で、抑圧されているが故に逆にエロチックとも取れる作品であった。

この公演を観た後で、きたまりさんのワークショップの後の感想で言い忘れたことを思い出した。彼女は、すべてがダンスだという見方もあるが、自分は本当のダンスを見つけたい。ではそうすればそれは見つかるのだろうと投げかけた。

ぼくは日常的な動きに制限を加えることで不自由さを与え、それにより自己の身体を覚醒させ、意識的にすることだと答えた。そのとき「振り付け」ということに言及したが、人に観てもらうためには完全に反復、再現できるまで練習しなければならないが、それが日常の動作と同じように反復されると身体の意識は消えてしまう。

「無意識」という言葉には二つの意味があり、「無意識的に行ってしまった」という時は意識していないという普通の意味で、ぼくがダンスにおいて求めるべきだと思うのは、フロイト的な意味での「無意識」を解放し、心の奥底を露呈するようなダンスである。

そういう意味で双子がこのチラシで書いている「記憶」とは、それがより強力になるためには、それが沈殿し、もはや「記憶」としては定着しない「無意識」となって抑圧されたものを解放するときダンスになるのではないかと思う。僕は、常日頃、ダンスとは、体による精神分析ではないかと思っている。(2014年3月14日。番場 寛)

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