なぜ「人生はつかの間の夢」というお話に惹かれてしまうのか ―能『胡蝶』『邯鄲』を観て―

 職場での退職された方々や卒業した学生の名残が消え去らないまま、いつの間にか新学期が始まった。住んでいるのは都会のど真ん中なのだが、あちこちに白い雲のように桜が咲き乱れており、風景が激変している。

 寒かった冬が終わり春を告げる花は同時に新年度を告げ、物理的には普通に流れている筈の時間に区切りを入れ、さあ、新たな年度だよ、と念を押すという意味で、咲き誇ったかと思うとすぐに散り去ってしまう花でもある。何てうまく出来ているのだろうと感心すると共に自分はあとこの桜を何度目にすることができるのだろうとも思う。

 そんな中、3月の28日に大阪で、杉本文楽『曽根崎心中 付り観音廻り』を観た後、29日、30日と続けて能を観る機会を得た。演目の中で『胡蝶』に興味を持ったのは例のJ.ラカンのセミネール11巻でも採り上げられている荘子の「胡蝶の夢」の「胡蝶」が出てくる能だからだ。

 舞台(河村能舞台)正面に据えられた赤い梅の花が造花な筈なのにあまりになまめかしく、季節が違うので、現実にはその梅の周りは飛び回ることのできない胡蝶が夢の中で、憧れていたその梅の花の周りを舞うという設定が見事だと思った。

 それ以上に『邯鄲』(京都観世会館、シテ河村晴久)は、テーマは勿論のこと、舞の演出(ダンスだったら振り付けと言うのだろうが)自体が見事だった。もう一週間以上経っているので頭に残っている光景だけを思い出してみるが、旅をしている青年が邯鄲という里で泊まり、宿の女主人の勧めで「邯鄲の枕」という枕で眠る。夢の中で彼は何の理由も無く突然、楚国の王になる。そして50年の栄華を味わう。

 舞台としてすごいと思うのは、邯鄲の枕の上で眠る場面はその枕が置かれている狭い寝床で舞い、その夢の中での栄華を極めている場面はその床から出た広い舞台の空間全体を使って舞うシーンである。

 そして夢から醒めると宿の女主人が粟飯の炊けたことを知らせるのである。「五十年の、栄華も尽きて、まことは夢の、中なれば、皆消え消えと、失せ果てて、ありつる邯鄲の、枕の上に、眠りの夢は、醒めにけり」という謡にテーマは圧縮されている。

 小学館の『謡曲集2』の解説によれば、これは「五十年の栄華も一炊(一睡)の夢のことであった、この枕によって、この世は夢の世と悟ることができた」という意味だそうである。

 一瞬のうちにあちこちで咲き乱れ、都会をもその華やかさで埋め尽くした後、一瞬のうちに散り去ってしまう桜と同じく、人生もこの「邯鄲の夢」のように儚いものだとしても、それだからこそその儚さは愛おしいのだろう。(2014年4月7日。番場 寛)

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