「村上春樹の公式」としての 『女のいない男たち』

 発売直後に買ったのに他のことにかまけていてようやく読み始めたが、すぐに引き込まれ読了した。「喪失感」「孤独」「すでに過ぎ去り戻れない過去への郷愁」等、村上ワールドではおなじみの心地よさで読者の心を揺すぶる筆致は変わらなくても、その技巧性、エクリチュールの洗練において、前作『色彩を持たない多崎つくると巡礼の旅』で感じたほんの軽い失望を追い払うほどの素晴らしさに何度も感嘆した。

 全体としてみれば非現実的で幻想的ともいえる構成でありながら読者の心に届くのは、視覚、触覚、聴覚、味覚、嗅覚など五感を喚起するよう「言葉」を駆使していることだ。たとえば昔親しかった友人に彼の彼女とつきあってくれと頼まれる『イエスタデイ』という作品では、ビートルズの同名の曲を関西弁に訳して歌う友人が出てくるが、話も現在から16年前に遡るという「時の隔たりが生むノスタルジー」を関西弁という言葉の響きでおかしみを加えることでより生々しく喚起することに成功している。

 ぼくがこの作品集を読んだとき思わずあることを女性に聞いて確かめたくなったのは、「シェエラザード」といいう作品である。シェエラザードというのは、「ハウス」と呼ばれる閉鎖的な部屋に一人で住む語り手に定期的に買い物や家事ばかりか性的な奉仕まで行う女性に、語り手がつけたあだ名である。性交がすんだ後、かれに一つずつ「お話」を語るのが『千夜一夜』の女性のようだからそう呼んでいる。

 閉じ込められているのか逃避してそこにいるのか分からない「外に出ることの出来ない」羽原という主人公の置かれた閉鎖的な状況、物語が主人公にもたらされる展開、奉仕する謎の女性、それらはこのブログで扱ったP.オースターの『写字室の旅』とそっくりだ。

 村上はそんなこと承知の上だと思われるがその先を行く。その女性の「わたしの前世はやつめうなぎだったの」という言葉から繰り広げられる彼女の話に引き込まれてしまう。見たこともない、獲物を待ちながら、口の吸盤で底の石にくっついて逆さになって水草のように揺れ動く「やつめうなぎ」のイメージがくっきりと浮かぶのだ。

 そんな彼女の語る話でオースターを凌ぐと思われる描写がある。彼女が17歳のときに夢中になった男の子の家に隠してある鍵を見つけて忍び込む光景である。その男の子の部屋に行き、すみずみまで探索し、そして最後に男の子の鉛筆を一本盗み、その代わりに机の引き出しの奥にたまたま持参していたタンポンを隠しておく。

 好きになった人の生活の隅々を知りたいという、おそらく殆どの人が十代の時には経験したであろう記憶を喚起する。それは視覚、触覚から嗅覚へと移り、しまいには男の子の洗濯していないTシャツを盗んだ話をした後、もう一度羽原に性交を頼む現実の場面へと展開する。

 それまで30代で体型がくずれかけており、顔も平凡な主婦と描写されていただけに、それと対比することで自分の語る17歳の時の記憶に入り込んで、あたかも自分の肉体までも17歳であるかのように変化し、身もだえる女性の描写の官能性の見事さ。それは外見が変化したのではなく、「語り」による「想像力」によるものだ。

  羽原はもうそのシェエラザードと呼ぶ女性が来てくれないのではないかと危惧するとき思う。「女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった」。

 こんな調子でこの本に収められている6つの短編すべてについて語りたくなってしまうが、控えたい。 女には「独立器官」と呼べる「嘘」を自然につける器官が身体に備わっているという記述に頷く人も多いかもしれないが、ここに収められている多くの短編に共通するのは、当たり前かもしれないが、「男から見た女の謎」である。

「ドライブカー」と題された最初の短編は、妻を病で亡くした俳優である男が、生前妻が浮気していたことを知り、浮気のことについて知っていたことを隠し、その相手の俳優と死後、妻の思い出を語るという話である。

 設定はアラン・レネの『メロ』という映画とかなり似ている。夫と愛人が、二人の対象である女性が亡くなった後、彼女への愛を語り合うという、映画と同じくまさしく「メロドラマ」的な流れだが、読者を惹きつけるのは、死んだ妻への問いである。

 主人公の問いはお互いに愛し合っていたはずなのになぜ浮気を複数の男と繰り返したのかであり、復讐のためではなく、その謎を解きたいという欲求からすがるかのように自分が浮気を知っていたことを隠し、その相手の男と主人公は懇談を重ねる。

 この短編で分かるのは、『メロ』もそうだったが、ある人への恋愛も性愛も他人に「語る」ことによってしかそれを自分で確認することはできないという真理である。その「語り」は決して解けない謎へのシジフォス的な永遠の試みのようにも思えることが読者の胸を打つのだろう。そしてそれは「独立器官」と命名するほど、無意識に嘘をつける能力が天性としてなぜ女性に備わっているのだろうという問いの探求とも重なる。

 この短編集の最後は本の題名ともなっている「女のいない男たち」である。語り手は「僕」であり、ぼくが「村上春樹の公式」とでも呼びたいエクリチュールがこれでもかというくらいに疾走感を帯びて発揮されている。

 村上春樹の公式=ノスタルジー+欠落感、これでもまだ不正確かもしれない。「ノスタルジー」とは「時の隔たりの感覚による欠落感」なのだから「欠落感」だけでも良いのかもしれない。

 「僕」は語る。「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ(…)どちらにせよ、あなたはそのようにして女のいない男たちになる。(…)そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染みこんでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように」

 ここで「女のいない男たち」と複数形にすることで、普遍的な存在として捉えていることに注目したい。ここに引用した箇所は村上春樹の公式がもっとも分かりやすく出ている箇所で、「孤独」「去ってしまう」「赤ワインの染み」と「欠落感」のオンパレードだ。

 それが分かっていても読者はそんな「欠落感」に酔いしれるのだ。(2014年5月29日。番場 寛)

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