安部公房によって描かれた寺山修司の「恐山」―『カンガルー・ノート』を読んで―

(以下の原稿はブログとして書かれたものです。『もぐら通信』という優れた電子配信の安部公房についての専門雑誌から原稿を依頼していただいたものの、それにふさわしい形式で書く余裕がないため、これがそのまま雑誌に載るかもしれないとをお断りしておきます。)

「第61回日本病跡学会総会」での研究発表が終わった。ここ一月ほどはその発表、「安部公房の夢の論理(2)-フロイトの「夢の臍」と比較して―」のために安部公房の遺作『カンガルー・ノート』に出てくる謎の呪文のような言葉「ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ /  唐辛子ノ油ヲ塗ッテ バナナの皮デクルミマス」という言葉の意味を巡って調べたり、他の人に尋ねたり、そしてその意味を自分なりに考えて文章にすることに追われた。

ようやく発表原稿を書き上げたと思ったら2000字ほど削らなくて、それに書き上げた時間と同じくらいかかってしまった。扱った『カンガルー・ノート』を読んでいて研究発表では触れられなかったことで一つ本当に驚いたことがある。

それは、この小説のかなりの部分、とくに「賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し」という歌が出てくる、「火炎河原」と題された章がまるで寺山修司の映画『田園に死す』の舞台となっている青森の恐山を彷彿させることだ。それだけではない、『カンガルー・ノート』で、脚の脛に「かいわれ大根」が生えてしまった主人公が括りつけられている病院のベッドはまるで生き物のようにレールの上を自走するのだが、それも『田園に死す』のレールの上のトロッコを連想させる。

確か昨年は寺山没後30年で、安部没後20年だったと思うが、世界的に評価されており、共に前衛という呼び名にふさわしい作家でありながら、ぼくの知っている限り、二人は生前交流も、対談もなく、お互いの作品に触れた文章も知らないほど二人はまるで別世界に生きていたかのようだ。
大学に入る少し前から二人とも好きと言うより、夢中になった作家だった。寺山の世間を騒がせた街頭劇や、実際の劇でもあまりにもおどろおどろしく、ときに客を驚かそうとコンニャクが客席に飛んでくる演出に、見ていて面白かったがどこまで芸術作品として優れているのかには少し懐疑的であった。

生前実際に二人は触れあわなかったとしても、接点はあった。それを寺山が日本に呼ぶきっかけをつくったと聞いているタディウス・カントールの劇については安部も触れている。寺山も安部もともにガルシア・マルケスを高く評価していた。寺山は彼の『百年の孤独』を最初演劇にし、のちに映画化(『さらば箱舟』)したがマルケス自身が自作との隔たりの大きさからクレームをつけたので、題名変更を余儀なくされたと言われている。

ともに前衛的で、安部は俳句や短歌は書かなかったが詩人として出発した。寺山は、小説は『ああ、荒野』一作だけだが、二人は共に晩年には世界でも高く評価される前衛芸術の作家であり演出家であった。
ただぼくを含めて世間一般には、安部と寺山はまったく傾向の異なった相容れないテーマを描いた作家として認識されていたようだ。相違点が大きすぎた。
安部は「故郷」やそれを拡大した「国家」を否定し、それにまつわる血縁関係に付随する愛情などを冷静な乾いた眼差しで見つめた。いわゆる「都市」の作家だ。

一方、寺山は「母親的なもの」「死んだ父親」に象徴される「故郷」「血縁」といったものに徹底的にこだわり、そこから自由になろうとする自分を追求した。

寺山の作品で自分にとって一番衝撃的なのは映画『田園に死す』の最後のシーンである。
主人公は、映画の中でなら母親を殺せるのではないかと思い、鎌を後ろに隠し持って映画の中の母親に会いに行く。すると母親はまったくかつてと同じように、どうしたのだ。はやく上がるようにと家の中に促し、食事を用意する。

もう殺意は失せ、ふたり黙ってちゃぶ台につき一緒に食事を続けるとき主人公の独白が流れる。「映画の中でさえ母を殺せない自分とは一体何者なのだろう」と。そのとき画面は突然劇の舞台のように部屋のついたてが3方向に倒れ、二人が座って食事をしている場所は、現代の新宿駅前の風景になる。そして最後に「本籍東京都新宿区字恐山」と語られる。

この映画のもっとも衝撃を受けるシーンであり、個人的はこの映画は全て分かったと思った。つまり成人し、どんなに都会の真ん中で生活していても心は母親に代表される「故郷」「血縁」「共同体」に支配されている自己というものを追求した作品なのだ。

他方の安部に惹かれたのは、そういった「血縁」「共同体」、その果てにある「国家」というものへの執着から完全に切り離されているというより、それらと徹底的に戦おうとしていた潔さのせいだった。

かれが処女作『終わりし道の標に』で、「何度でも故郷の友を殺し続けるために」と書いたのは、勿論現実の友を殺すという意味ではなく、そうした「共同体」を否定する意志の現れだと思う。

ところが、この遺作『カンガルー・ノート』には自走するベッドを初め、賽の河原で石を積む子の場面やおどろおどろしい場面が続き、まるで寺山の『田園に死す』の恐山の場面に感化されたかのような描写が続くのである。

また記憶によれば、安部の小説には殆ど出てこない「母親」がこの小説では三味線を持った目を亡くした皺だらけの不気味な老女として出てきて「親不孝者めが」と主人公をなじる。それだけに寺山の描く、子に執着しその「愛情」で子を縛る「母親」との違いの大きさが際立っている。

「父親」はもっとひどい。寺山の映画では「写真」に写った今は亡き人としての「父親」は、安部のこの小説では「父そっくりの眼鏡をかけたスプリンクラー、スプリンクラーに刻まれた父の肖像」とデフォルメされている。
実生活がどうであったかではなく、創作において安部は完全にこうした「血縁的なもの」と切り離されている。
今回『カンガルー・ノート』を繰り返し読んで思ったのは、安部と寺山は実生活において触れあわなかったとしても、その描いたテーマはそれほど隔たっていたのかという疑問だ。

寺山も マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや と歌った。劇の『レミング』は、あらゆる部屋から壁が消えていくという話だったが、それを拡大すれば「国家」の否定ともつながる。満州で幼い頃育った安部公房がやがて「クレオ―ル」という「国語」に対立する国境を越える言語に注目したのもひょっとしてそれほど「故郷的なもの」を否定したいほどそれに捕らわれていたのでは、と考えれば、寺山と安部はひょっとして表と裏のような関係で、無視に近いほどお互いに無関心という形で、似たテーマを追求していたのかもしれないと今は思う。(2014年7月14日フランス革命記念日。番場 寛)

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