「普通に生きようとするなら、それだけで十分くるっている」ー田中幸夫監督「凍蝶図鑑(実際は難しい漢字です)」を観てー 

今は学期末の試験が行われており、教員は採点に追われている。ふと「京都シネマ」のスケジュールを見ると26日は「凍蝶」という映画の最終日だった。見逃すまいと出かけた。

まず、映画が始まって勘違いしていたと分かったのは、チラシの、フランスでロングランを続けた「変態」を扱った映画という言葉だけを覚えていたので。てっきりフランス映画かと思っていたが、実際は日本の変態と呼ばれている人たちのインタビューを交えたドキュメンタリー映画だった。フランス人の変態だったら、日本人から見ればその程度において恐らく比べものにならないくらいすごいのでは、という期待は最初から挫かれた。

同性愛、フェティシズム、刺青、ピアッシング、身体改造、スカトロジー(これは映像では出ない)、ドラァグクイーン、等、これでもかというくらいにこうしたことに熱中し、「変態」という範疇に入れられている人たち、中にはそれらを極めて芸術家として生計を立てている人も何人もおり、それらを「変態」と呼ぶことがふさわしいのだろうかと疑問がわくように描かれている。

この映画を見ていると、最初は目をそむけたくなるのだが、当事者の話を聞いているとまったくまともというか普通の人たちなのだということが分かり、それだけにこうした嗜好を持ちながらそれらが嫌悪や蔑みの対象とされている日常を他の人たちと一緒に過ごさなければいけないのは苦痛だろうと推察された。

まず、好感を持てたのは、大阪の淀川敷で小屋を建てて生活している人の所に集まる変態と呼ばれ、自認もしている人たち同士の交流だ。カメラに向けて上に着ているものを捲るとロープで縛った裸体が現れる女性の、その場所で本来の自分の姿をさらけ出して他人と交流できる喜びを語る姿を見ると、まるで学芸会で仮装した小学生のように無邪気に見える。

カメラはその男性にエサをねだる野生のアヒルにカブトムシの幼虫を与える姿と、そのアヒルと戯れる犬とを映し出す。意図は分からないが、最初異様に映る姿が、互いの意志の交流がなされるとほのぼのとした光景に映るのだ。「ここに来て自分と同じような人たちと出会うと人の変態ぶりに寛容になる(記憶で書いています)」と言った言葉が印象深い。

どの場面も最初は目をそむけたくなるが、次第に共犯者のような感情に襲われる。異なった様々の種類の倒錯者の姿を見ていると、何か共通点があることに気づかされる。それは自分のしていることに対し極めてストイックでまるで求道者のように振る舞うことだ。

もう一つは、求道者という言葉が想像させるように極度の「苦痛」を伴うことだ。刺青は最近でこそ麻酔をかけてから擦る人もいるが、映画の彫修羅という男性は、敢えて苦痛に耐えている人に彫ることに意義を見出し、そのときに暴れる人を押さえ込むために日頃から肉体訓練を重ねている姿が映し出された。

言葉として表されるいわゆる「変態」はステロタイプ化され日常でも「~フェチ」などという表現が日常語として使われているが、この映画を見ていると何が正常で何が異常、変態なのか分からなくなる。

ただ思ったのは、この映画に出ている人たちは幸福に見えるということであり、それはなぜかというと、まず自分は多数の人とは異なっているという孤独感に襲われていたのが、自分と同じように「変態」という範疇に入る他人に身近に接したとき、あるいは普通に自分を受け入れてくれる他人と出会ったときの幸福そうな表情を浮かべているからだ。

映画の最後は女子高生の制服姿の若い20才くらいの女性が、手脚や胴体に太い金属製の鈎を突っ立てそれにロープをつけ、客の前で吊すというもので、思わず「痛い」と感じ目をそらさざるを得ないシーンだった。衛生面も、回復が早い方法を学んでいるので大丈夫だという主催者の言葉にも、多くの人は反発を感じざるを得ないだだろう。

「異常な自分」を観てもらうことに喜びを感じるのは文字通り、「異常」なのだろうが、それでも「何故これほどまでしなくてはいけないのか?」という疑問は消えない。

どんなに「異常」に見えても本人とそれを見ている観客が承認のもとでの喜びに満ちているとしたらそれは受け入れるべきなのだろうか? この映画を観て以来、未だに頭の整理ができていない。

映画の最初と最後には人工のアゲハチョウのような蝶が飛ぶシーンがある。最初映画のタイトルが読めなかったが「凍蝶」は「イテチョウ」と読むそうで、俳句の季語ともなっており、冬まで生きのびて動かなくなっている蝶のことだとネットの辞書には説明されている。

結局この映画を一言で説明しようとすればポスターにも添えられている、映画の最後に出てくる言葉につきると思う。

それは「普通に生きようとするなら、それで十分狂っている」というものだ。

思い出されるのは、そのまま書かれている文章は見つけることはできないのに、多くの人からJ.ラカンの言葉として引用されている「全ての人は、精神病か倒錯者か神経症者のどれかに当てはまる」というものだ。ラカニアンの皆さんがもしこの映画を観たとしたらこの映画の「倒錯者」たちをどのように分析するだろうか?

「異常」ではなく「普通」とはどういうことか分からなくなった。(2014年7月28日。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中