可愛くない猫と官能的な少女―「バルテュス展」を観て―

 東京で「バルテュス展」が始まったときすぐにでも飛んでいきたかったのにかなわず、京都でも観られることに喜び心待ちにしていたのに、なかなか観に行かれなかった。パリ行きが近付いているのだが、パリに行っても京都にある何枚かは観られないことに気づき、あわてて京都市美術館に行った。 

すでにピークを過ぎていたせいか、観客も丁度良いほど空いていた。予想していたとおり代表作の大きな油絵は数えるほどであり、習作の油絵や油絵がもとの美術館に置かれているその絵の元となった習作のデッサンが数多くある展覧回だった。それでも、もともと大好きな画家の一人だったのだが、帰ってきて一夜を過ごした今も興奮が残っている。 

それは今回の展覧回の展示の仕方と説明に明確な意思が感じられ、それに共感したせいでもある。 

節子夫人の声が混じる説明の音声ガイドを聞いていたのだが、その説明を聞いていて何度も再生したものがある。それは有名な「夢見るテレーズ」という1938年の作品についての説明であった。 

椅子に座り、半袖のシャツを着た両腕を頭の上で組み目を閉じている少女の左脚は、くの字型に折られ、椅子の上に載せられているため赤いスカートはすっかり捲れ上がり、下着がさらされている。その傍らの床にはミルクのような何かを嘗めている猫が一匹いる。 

バルテュスの人物同士、人物と猫は常に互いに無関心というか無関係のように描かれている。少女は何を考えているのか、何を夢見ているのか分からないが想像したくなる。そうした点では猫と特徴と合致しているのかもしれない。しかしよくネットで観るような猫の可愛らしさは全くないと言って良いほど可愛くはない。むしろ不気味な感じがする。 

美術館の入り口に展示されているこの複製となっている絵の猫は唯一思わず微笑んでしまう猫だ。写真 (3)

海面から出ている虹の先が様々な魚に変身し、これから食事をしようと待ち構えている猫のテーブルの上のお皿に次々と乗るなんて、なんて願ったり叶ったりなんだろう。

ボートに乗っている少女もこちらに向かって手を挙げていることも変わっている。この絵はバルテュスの絵ではまれだと思う。 

さて「夢見るテレーズ」の説明だが、次のようにバルテュスの少女観を伝えていた。 

「少女とはこれから何かになろうとしているが、まだなりきっていないこの上ない完璧な美の象徴なのである」(記憶で書いています)。 

この言葉に感心したのは、ある完成を目差した「未だ」という不完全性こそが「この上ない美の象徴だ」という考え方である。つまりそこにあるものを通して、いまだそこにないものを観ている者の心の中に生じさせる力が、バルテュスの描く少女にはあるのだ。 

展覧回場にはバルテュスのアトリエが再現されているし、江國香織が彼のアトリエを訪れたとき彼女に絵を見せるとき光の当たり具合を執拗なくらい助手に指示して返させているシーンが観られるビデオも観られて良かった。 

ところで今回パリに行っても観ることのできない2枚の絵とは、「キャシーの化粧」と「鏡の中のアリス」という共に1933年の作品でポンピドゥーセンターの近代美術館に所蔵されているもので、パリに行く度にまるで挨拶をしにいくように観に行っていた絵である。何回も観ているのに、何度目かにようやくアリスが性器をさらしていることに気づき驚いたことを思い出した。 

驚いたのは今回京都で観ると同じ絵なのに受ける印象がかなり違ったことだ。何かのしかかられるような圧力を絵から感じた。おそらく京都の美術館の展示してある部屋の背景の壁の暗い落ち着いた色調のせいだと思った。 

今回の展覧回はいわゆる傑作と呼ばれる完成した作品だけでなく、それらが生まれつつある過程とその背景をも一緒に展示しているという意味でも「少女」の展覧回と呼ぶのがふさわしいと思った。(2014年8月22日。番場 寛)

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