こんなに精神分析理論が当てはまるなんて嘘みたいだ!―ノーラ・チッポムラ作・振付・ダンス「父のような自画像」(京都芸術センター)を観て

両側に観客席をもうけ、その間を渡り廊下のように長く舞台を置き、その端には四角い枠で囲まれ、多くの白い紙切れを貼り付けた板を設置している。そこには強い証明が当てられているが何か小さな人の型の影が映っている。つまりそれが自画像であり、長い舞台で演じられることがそのままそのキャンバスに描かれた自画像という意味なのだろう。 

ダンスに限らず、他の芸術作品を観るときには、誰でも意識的であれ無意識的であれ、何らかの自分の物差しにより、見た対象を自分なりに理解しようとする。ぼくの場合はそれがたまたま記号論や精神分析理論なのだが、今回のこのダンス作品を観ていて思ったのは、こんなに精神分析の図式がそのままうまく当てはまるなんて嘘みたいだということだ。 

長い舞台の端で上着を脱ぎ捨てたダンサー(ノーラ・チッポムラ)でまず目に付いたのは股間につけた真っ赤な二つの球状の玉で、観ると頭にも赤いちょんまげのようなものをつけているのが見えた。舞台中央まで漸進しながら必死で動く身体は、戦いを表しており、その度に揺れ動く二つの玉は、明らかに象徴としての男性器であり、精神分析的にはファルスである。 

徐々にキャンバスに見立てた板の置かれた端へと踊りながら進む姿は、女性が幼い頃から無意識的に抱いているとフロイトが指摘した「ペニス羨望」があからさまに現れていると驚いた。ノーラ自身はフロイトの心理学はこの作品においては重要ではないと答えたのは、逆にフロイトの正しさを証明してしまったように思った。なぜなら彼女はフロイトを意識しないでこの作品を創ったのだからだ。 

思い出すのは、数年前に熱中した2010年に亡くなったアメリカに住んでいたフランス人の彫刻家、インスタレーション作家、ルイーズ・ブルジョワのことである。ルイーズは幼い頃から父親に対し、執拗な愛と憎しみを抱いており、女性の誰もが抱いているとフロイトの指摘した「ペニス羨望」がその父親への憎しみと合わさったとき「父の破壊」というインスタレーション作品となって結実した。 

ノーラは父の顔を知らないと言い、この作品の「父」とは、力強い「男性性」の象徴であると説明した。その象徴としての「父」に同一化しようとするとは、まるでJ.ラカンの言う「父―の―名」ではないか。ノーラ自身が心の中の父に宛てた手紙には「あなたがいたことを示す唯一の証拠は、あなたの名前、私たちの名前」と書いている。 

舞台の中央で男性二人(垣尾 勝、佐藤健太郎)を交えたレスリングのような闘争を経た後は乳房を露わにし、大きな着物の帯で作ったリボンをお腹につけて、急に曲線的な柔らかな身のこなしになり、時折微笑みさえ浮かべる。これは自らの「女性性」を受け入れることで「ペニス羨望」を自分なりに克服した姿なのだろうか? 

フロイトを引き継いだJ.ラカンによれば、女性は最初、父親のファルスを求め、やがてパートナーにそれを求め、またそれはファルスとしての「子ども」を持ちたがるというのが図式的な説明だが、今回の作品は舞台の端から端までが女性の無意識の発達段階に対応しているようで、嘘みたいにあまりに符号していると思った。 

ダンスそのものは、素晴らしかった。疲れるが観ていて一瞬たりとて退屈することはなかった。日本とヨーロッパのダンスしか殆ど見たことのない自分にとって全く新しい身体の動きで、初めてアフリカの身体というものを観た気がした。ノーラは勿論のこと、これを企画制作した、水野立子さんを初め、今回の公演に携わった多くのスタッフに感謝したい。(2014年8月24日。番場 寛) 

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