パリで観たゴダールの新作3D映画、Adieu au langageとピナ・バウシュ振付のTwo cigarettes in the dark―言葉の国の***(2)―

「へえ、ゴダールってまだ生きていたの?」。パリで、同じく日本から来ていたフランス語の教員二人と話していたとき「パリスコープ(催し物の情報誌)」を見ていた一人がつぶやいた。まったく彼女たちのおかげで見逃さずにすんだ。 

ゴダールの新作が3Dだと聞いていて,ゴダールも商業主義に走ったのだろかと危惧していたが、違った。例によって映像と音と哲学的語らいの交響楽であり、物語はあるのかもしれないが分からない。僕が観たのは音声がフランス語で字幕が英語ヴァージョンだが、逆のヴァージョンもあると聞いた。 

映画館の入り口で渡された消毒用の眼鏡ふきで専用の眼鏡をはめて見ると確かに普通の3Dの映画と変わらず、街中の風景のテーブルが立体的に飛び出して見えるがどうしてわざわざ3Dを採用したのか分からなかった。 

ところが「あっと」声を上げそうになったシーンがあった。思わず眼鏡がずれてしまったのかとおもったらそうではなかった。映画の最初から何度か繰り返されるのは裸体か僅かに下着をまとっただけの男女が語るシーンだが、ある瞬間二人の体が輪郭を残したまま溶け合うようなシーンがあった。一種のオーバーラップだが3D独自の描き方だと思った。 

ゴダール自身の声も混じる語りはゆっくりだがやはり難しく字幕は速すぎるというよりそれぞれが、詩か哲学の言葉のようで考えているうちに次に変わってしまうので今は殆ど思い出せない。今覚えているのは何度も映し出される海や川の波、風にそよぐ木の葉、夕日。それらと、男女の繰り返される会話、一瞬だけ見えた性交の場面。男女の会話がなされる場面では必ず背後に映画史に残る過去の映画作品の男女の会話が映し出されている。 

どういうつもりでゴダールはこの作品にAdieu au langage(言語活動への決別)というタイトルをつけたのだろう? 文化・文明の否定なのだろうか? そうではあるまい。言語によって様式化され、すでに汚染されてしまった「眼差し」にもう一度原初の無垢さを取り戻させようという意味なのだろうか?もう一度見たいと思ったが時間がなかった。 

一方地下鉄の連絡でウイリアム・フォーサイス振付のダンス公演のポスターを見つけ、しかもそれが始まるのが帰国日の9月4日からだと知り、くやしい思いをしていたのだが、例の日本人からタンツテアター・ヴッパータルの公演がオペラ・ガルニエであることを知らされた。即座に予約できなくて当日の朝窓口でチケットを購入したが一番安い席しか残っていなかった。 

3階席の正面と聞いていたが柱の影になり、舞台の右側3分の一ほどが見えない最悪の席だと思った。体を傾けて見なくてはならないがそれでも殆どの場面を見ることができた。気づいたのは、ダンサーたちが客席を配慮したのか殆ど広い舞台の中央でダンスや演技を行っていたことだ。 

全体は真っ白で、正面に大きくガラス窓越しに,ジャングルのように森が広がっているのが見える。左上には大きな水槽が置かれそこには生きた金魚が泳いでいる。 

驚いたのは最初の胸元を大きくはだけた女性が一人で踊るダンスである。上半身を中心に長い髪を揺らし、ちょっと今まで見たことのない動きで踊った。ただ、普通の意味でダンスらしいダンスはそれと,後は集団で尻餅をついたまま前進するダンスで他は、ダンスらしくない動きであった。 

例えば一人の女性が少し踊っては立つ、すると後ろに張り付いたように立った男性が女性の背後の肩の辺りで観客からは男性の手の先だけが見えるようにして素早く動かす。すると観客からは女性から天使の羽が生え動いているように見える。 

ピナ・バウシュの作品は演劇的で必ず言語を伴うし、意味もメッセージもある。席が遠いため言葉は殆ど聞き取れなかったが、多分こんなことを伝えたいのだろうという場面があった。それは一人の若い女性が脚に紐を括りつけられ逃げるように舞台を走り回るのだが、その先にはバケツが括りつけられている。家事に縛られている女性を描いたのだろうか? 

休憩を挟んで合計2時間15分もの作品だったが一瞬たりとて退屈することはなかった。最低の席だったが、最高の舞台だったと思う。見終わって改めて不思議に思うのはいわゆる激しく素晴らしい体の動きは少なく、立って何かしたり、歩いたりする場面が多いのにそれらがみな美しく、面白いことだ。最後の舞台挨拶のときに初めて、もうそこにはいない亡きピナ・バウシュのことを想った。 

今回の滞在の目的だった「国際ラカン協会」の「サントーム」をテーマにした4日間のセミナーは勿論のことだが、街中で見かけるオープンカフェで語り会う客の姿を見ていつも思ったのはどうしてフランス人はこんなにしゃべるのだろうかということだ。カフェで一人で座っている客や電車の中や歩きながら、ヘッドフォンをつけて携帯で話している人を何人も見た。彼らは、カフェで二人で向かい会っているのにスマートフォンを覗いている日本人を見たらどう思うだろうか? そうここフランスは「言葉の国なのだ」。 

何年か前にここのブログで「言葉の国の***」という題で書いたことがある。***には自分の名前を入れたつもりだった。ピナの振付もそうだが、ゴダールの新作のタイトルを改めて考える。言葉に別れを告げるにもやはり新たな別の言葉を必要とするのだろう。それくらいわれわれは「言葉」に依存している。それは、今回は何回かしか受けることのできなかった「精神分析」にも言えることなのだろう。(2014年9月6日。番場 寛) 

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